歎異抄

 歎異抄を読んで見ました。私が読みましたのは筑摩書房発行、増谷文雄著の「歎異抄」と言う本で、発行が昭和40年11月30日4版と有りますので私が19才の時に読んだ本です。値段が320円と有りますので時代も変わったものです。今ならこの4倍から5倍の値段はするでしょう。19才の青二才が読んだのですから読後に訳も分からずそのまま本棚に入れてしまった物のようです。

 この本の体裁は第1部と第2部に分かれていて第1部が歎異抄の本文、第2部が増谷文雄の丁寧な解説になっています。第1部は原文と現代語訳、そして注釈になっており、第2部は歎異抄の歴史、時代、構成、そして歎異抄に書いてある中の親鸞の言葉の部分を主に解説しています。

 歎異抄は親鸞の弟子の唯円と言う人が親鸞の没後30年頃に書いたもので、その名の通り「異を歎く小冊子」です。ここで異とは他の宗派を指すものでは無く、同じ浄土宗の中で法然や親鸞の教えとは異なる事を主張する人が多く有るのを歎きながら異義批判を加えるものです。

 歎異抄の構成は前半の第1段から第10段の親鸞の言葉を書き留めたもの、そして後半の第11段から第18段の唯円による異義批判、そして前書きと後書きとになっています。これを最初に通読しました時には、度々「これは誰が言っているのだろうか」と頭がおかしくなりそうでしたが、増谷文雄の解説ですっきりと納得出来ました。唯円が歎異抄で最も主張したかったのは後半の異義批判なのですが、増谷文雄は前半の親鸞の言葉に圧倒的な存在感が有って唯円の異義批判は色あせて見えると書いています。

 さて異義批判ですが、浄土宗の中での異端に対する異義批判は屁理屈に応じて屁理屈を返すと言う趣(おもむき)が有って、読んでいても何も面白くは有りません。むしろ唯円が第15段で示す他の宗派に対する浄土宗の立場を面白く思いました。「即身成仏は真言秘教の本意」、つまり即身成仏は真言密教の教えの目標、そして「六根清浄はまた法華一乗の所説」、つまり六根清浄は天台法華の説くところ、それ等は上根の者のつとめる難行、そしてそれ等に対して「来世の開覚は他力浄土の宗旨」、つまり来世にさとりを開くのが他力浄土の宗旨、これは下根の者のつとめる易行である、と主張しています。

 唯円が主張するこの部分は、既存の宗派の主張であるテーゼに対する浄土宗の主張するアンチテーゼと考えて良いでしょう。既存の宗派の主張をテーゼ1、そしてこれに対する浄土宗の主張をテーゼ2と言えば分かり易いかも知れません。真言宗では即身成仏を目標としますので、これは現世での解脱を主張していると言えます。但し、真言宗の始祖である空海は確かに解脱を体験していますが、鎌倉時代の真言宗のお坊さん達は解脱を体験出来ずに理屈ばかり言っていたのかも知れませんね。また、天台法華については良く分かりませんが、天台は仏教経典の図書館のようなものですから、教養仏教と呼んでも差し支えは無いでしょう。ですからテーゼ1は仏教の理屈を主張していると言えます。

 さて、唯円の主張するテーゼ1に対するアンチテーゼはアンチの部分とテーゼ2の部分とに分かれるようです。テーゼ1は理屈ですからアンチの部分は理屈で返します。つまり、勉強が出来て自力で往生(解脱)出来る人はそれで良いだろうが、自分達浄土宗の面々は勉強も出来ず煩悩まみれなのでひたすら阿弥陀仏にお願いしてあの世(または来世)での往生(解脱)を願うのだと理屈で返します。そして真言や天台の僧侶達も現世での往生(解脱)を諦めて来世での解脱を願う、まして我等はである、と反撃します。

 では唯円の主張するテーゼ2とはどんなものでしょうか。煩悩だらけの悪人をなんとか救いたいと阿弥陀仏が請願されたので有るから、煩悩だらけの我等こそひたすらに阿弥陀仏を信心し念仏を唱えて来世での往生を願うのだ、だいたいこんな所でしょう。歎異抄の第3段に出て来ます有名な「悪人正機説」、つまり「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ですが、これは親鸞だけが主張しているものでは無く、浄土宗の根本思想であると言えます。

 私にはこのテーゼ2がどうもしっくりと来ません。阿弥陀仏がゴータマ・ブッダや他の仏を押さえて最高位の仏だと言うが、誰がそれを決めたのだろうか。また、現世での往生(解脱)を諦めてあの世(または来世)での往生(解脱)を願うとはどう言う事か。それから信心念仏が易行で真言や天台が難行だと言うが本当だろうか。これは理屈と言うよりも屁理屈、屁理屈と言うよりも感情の発露、つまり「気分」なのでは無いか。「理屈」と「気分」と言う相反するものが並立して主張されているのです。私は歎異抄が日本人に広く愛されている理由が分かるような気がしました。日本人には「理屈」と「気分」の並立を好む傾向が有るようです。ある程度までは「理屈」を進めるけれど最後には「気分」に身を委ねてしまうところが日本人には有りますでしょう。歎異抄は宗教哲学か、それとも文学か、これについてはしばらく私の宿題としておきましょう。

 さて、神を深く信じる事で人格を高め、また解脱を求める行をインドではバクティ・ヨガと言い、念仏の事をジャパと言います。そしてキリスト教はバクティ・ヨガと呼んでも良いでしょう。ジャパ(念仏)はヨーガ・スートラに出て来るヨガの8段階の2段階目のニヤマ(勧戒)の中のスヴァーディアーヤ(読誦)に近いと思います。これはヨガの8段階のうち最終の8段階目では無く2段階目です。ヨガの8段階で第1段階のヤマ(禁戒)と第2段階のニヤマ(勧戒)はヨガの準備段階とも言える部分ですので、ジャパ(念仏)だけで解脱に至るのは大変に難しいと言えます。また、これは私の考えなのですが、バクティ・ヨガで解脱に至るのは相当難しい筈です。唯円の言葉を借りるなら「難行」です。一方で瞑想の行をインドではラージャ・ヨガと言います。日本の仏教に求めるならば真言密教や禅がこれに当たります。坐法、呼吸法、集中と瞑想で解脱を求めるラージャ・ヨガは手間隙は掛かりますが、解脱体験から遡って見ますと信心念仏行よりも遥かに簡単に思われます。唯円の言葉を借りるなら「易行」です。真言密教や天台法華を「難行」とし、他力浄土を「易行」とした唯円の理屈は破綻します。また来世での往生(解脱)は現世での修行努力が有ってのものですから現世での信心念仏と阿弥陀仏の請願だけでの往生(解脱)には無理が有ると思います。これは乱れた鎌倉時代に於いて救いを求める一般大衆の希望に応じた教えと解釈した方が良いようです。

 さて、いよいよ大詰めです。歎異抄を読んで私が一番気になりますのは、親鸞に解脱体験が有ったのか、それとも無かったのかと言う点です。親鸞は大変に魅力的な人で、何かを隠す事などは出来ない性格のようです。ですから解脱体験をしたので有れば、「私はこれこれの解脱体験をしましたので皆さんもご一緒にどうぞ」と教える筈です。しかし親鸞は「念仏より他に往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心憎く思し召しておはしましてはんべらんは、おほきなる誤りなり」、「ただ念仏して弥陀に助けられまひらすべしと、よきひと(法然)のおほせをかふりて信ずる他に、別の子細なきなり」と、念仏の他には何も知らない、ただ法然の教えを信じて阿弥陀仏に助けていただこうと信じるのみと言います。これを聞きますと、親鸞には解脱体験は無いと判断されます。

 しかし親鸞の語り口は大変に魅力的です。その語り口には聞く人を驚かせ、そして強く納得させるものが有ります。例えば、「たとい法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、「親鸞は父母の孝養の為とて、一返にても念仏申したる事いまださふらはず」、「親鸞は弟子の一人も持たずさふらう」、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも、面々の御はからいなり」、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にて有りけり。よくよく案じみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべき事を喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまふなり」等と、聞く人をぐいぐいと引き込んでしまう魅力に溢れています。

 どこかで聞いた語り口だと思いましたら、新約聖書でした。親鸞の言葉はイエス・キリストの言葉によく似ています。「阿弥陀仏」を「父」に置き換えれば、親鸞はキリシタンになってしまいます。

 イエス・キリストのような話し方をする人に解脱体験の無かろう筈が無いと、私の心はいっぺんに振り出しへ戻ってしまいました。親鸞に解脱体験が有ったのか、無かったのか、謎です。どなたかご存知有りませんか。