お米屋さん

 いつの事でしたか、私の得意先に大手のお米屋さんが有りました。お米屋さんが酒類販売免許を取ったので私が担当する事になったのです。お米屋さんの出先の事務所がうちの営業所から歩いて行ける所に有って、そこはお米屋さんの常務が仕切っていました。お米屋さんはお米を売りたい、ですから常務は酒類で利益を取る事は考えず、お米を売る為に酒類については大変安い見積りを出しました。そうしますとこれまで多くの営業部員が大変な苦労をして獲得した業務店が元々の仕入先から帳合をこのお米屋さんに変更し、うちのビールの販売実績がこのお米屋さんに上がるようになって、このお米屋さんについては私は何も努力しなくても私の販売実績が伸びて行きます。こんな事は酒類業界にとっては良く無い事だと私はむしろ不愉快に思っていました。

 ある時、大口の業務店の開店話がお米屋さんに持ち込まれ、業務店の部長さんをモデル店案内を兼ねて接待する事になり、私はこのお米屋さんの常務と2人で出向きました。2、3店お店をご案内した後にお開きとなる時、常務は寿司折りを3個買い、部長さんにそのひとつをお土産として渡そうとしました。部長さんは一瞬受け取るのをためらいましたが、常務も私も寿司折りをひとつずつ持っているものですから安心したのでしょう、常務の寿司折りと私のタクシーチケットを受け取って機嫌よく帰って行きました。その時寿司折りを3個買った常務に、私は狡猾さを感じました。

 その件も無事に終わった頃、営業所で私が電話を取りますと、掛けて来たのはうちの会社の他の営業所の若手の営業部員でした。彼は、彼の担当する酒販店と一緒に新規の開店話を追っているのだが、私の担当するお米屋さんが強力に攻めて来ていてしかもビールの見積りが相当安い、どうしたものだろうかと訊ねます。私は、「あそこはねえ、お米を売る為に酒類の見積りを安くする、業界では悪名高いお店だから僕には遠慮せずに存分に戦ってくれ」と答えました。

 3日後にお米屋さんの常務から私に電話が入りました。「君はうちの事を悪名高いお店だと言っているそうだね」と、相当怒っています。私が「そんな事は有りませんよ」と返事しますと、「新規の業務店の人がそう言ってるのだから間違いない」とたたみ掛けます。常務に押されながらも私は「兎に角調べてみますから」と言って電話を切りました。

 3日前の、あの若手の営業部員に電話をして確かめますと、「確かに言いました」と答えます。馬鹿者が、聞いた事をそのまま言う奴が何処に居る!腹が立ちましたが、兎に角問題を収拾しなければなりません。私はこの営業部員と2人で常務の所へ申し開きに行くことにしました。

 前もって私は、何が何でも私達は「悪名高い」等一言も言っていないと押し切るぞと言い含めました。翌日2人でお米屋さんへ行きますと畳部屋へ通されました。私が靴を脱ぎますと靴下には穴が開いていて親指が見えています。何でこんな時に!私は常務に叱られる前に相当気落ちしましたが、後へは戻れません。

 畳部屋で常務と私は激しく互いの主張をぶつけ合いました。「言った言わない」の話で物的な証拠は何も無い訳ですから話は平行線のままです。2時間近く経って、常務は「分かった、話はここまでにしよう」と言ってくれました。そして最後に常務は「人の口に戸は立てられないと言うから本当の所はそのうちに分かるからね」と凄んでくれました。

 以来、「人の口に戸は立てられない」は私の自戒の言葉になっております。