銀座を担当

 1999年から2000年にかけての1年間、私は中央支店に配属されて銀座を担当しました。酒類メーカーの営業部員にとって新宿や銀座はいつかは担当してみたいエリアです。私は若い時に新宿を担当して存分に働きましたので、今回銀座を担当すれば営業部員としては2冠達成という事になります。とは言っても年齢としては52才から53才にかけての事ですから若い時のように激しく活動する事も出来ず、どちらかと言えば銀座を楽しませていただこうと言う気持ちが強かったようにも思います。

 酒類メーカーにとって銀座は頂上エリアであり、ですから銀座を取れなければ東京を取る事は出来ず、東京を取れなければ全国を取る事は出来ないと言う意識がずっと前から会社には有りました。実際に競合他社が銀座を激しく攻め、我社はこれを押し返すのに大変な苦労をしたばかりの頃でした。競合他社は我社を誹謗中傷して着実に銀座の陣取りを進めました。我社では営業部員への品質研修を何度も実施して営業部員に自信を取り戻させ、営業部員はそれこそ肉弾戦で銀座の陣取り合戦を展開して競合他社を追い落としたものです。銀座には肉弾戦の為の秘密基地としての事務所(と言うか倉庫)もありました。

 この頃の我社の方針は「高級ウイスキーを売れ」でした。高級ウイスキーを売れば利益も大きく、ですから「高級ウイスキーを売れ」なのです。しかし「失われた10年」の頃でもあって景気は悪く、この方針は間もなく失敗して市場を焼酎に取られ、それから随分経ってハイボール作戦で巻き返す事になります。

 中央支店へ行きますと上司が私の仕事を説明してくれました。昼間は銀座周辺の業務用酒販店を担当し、夜は銀座の比較的に小規模な業務店で高級ウイスキー取り扱いの維持活動をするのだと言います。維持活動の対象になる業務店が16店程有りました。この16店を月に1度は訪問して我社との良好な関係を維持するのです。業務店について月に35万円程の予算をくれました。35万円は高額ですが、銀座という頂上エリア対策費としては決して大きなものでは有りません。実際に業務店(クラブ)を訪問しますと、座って2万円、ボトルを入れて2万円の世界ですから、週に2度業務店回りをして1晩に2軒の訪問をすれば1ヶ月で16軒となり、1軒当たり2万円とすれば合計32万円になりますので、35万円の予算ではちょっと苦しい計算ですね。会社の同僚から「1度銀座へ連れて行ってくださいよ」と言われれば1人2万円のプラスになりますからギリギリの予算だと言えます。一方、2人で業務店訪問をすれば先方での会話も弾みますし、これは大変助かります。

 さて1晩に2軒の業務店訪問ですが、私は比較的にキーマンの出勤の早いカウンターバー等を先に訪問し、その後にクラブを訪問しました。クラブのママさんは大体9時前後の出勤ですからあまり早く行ってもママさんには会えず、ママさんに会えないと訪問の意味が有りません。1軒目は8時頃まで滞在し、それから2軒目へ行きました。ママさんに挨拶して雑談をし、お店を出ますとだいたい9時半頃です。それから帰宅しますと家に着くのが11時頃、お風呂に入って寝るのが12時過ぎ、翌朝は6時過ぎに起床しますので、業務店訪問をした翌日の眠い事。若い頃はよくもまあ深夜まで頑張れたものです。いやいや、私の体力が落ちたのでしょう。でも、こんな事を言うと怒られますよね。

 私の担当店の中にシャンソン・クラブが有りました。ママさんがシャンソンを歌うお店です。ママさんの他にホステスが3、4人、そして男性の店長が1人という構えでした。豪華な内装の明るいお店で、店長はピアノ奏者でした。ママさんが出勤すると店長のピアノでママさんがシャンソンを歌うのですが、迫力の有る見事な歌です。ママさんは年に1度ヤマハホールでリサイタルを開く程の力量の有る人でした。

 ママさんの父上は銀座でお寿司屋さんを経営して成功し、会社組織にして支店も何軒か持っていましたが息子が無かったようです。娘にお寿司屋さんをやらせる訳にもいかず、娘にはクラブを開店させました。娘は音楽学校を出ていたのでシャンソン・クラブを始めたのです。ママさんは父上の会社の跡継ぎでした。

 ある日、お店を出る時にママさんが私に「お荷物は?」と聞きますので「私が会社のお荷物です」と応えますとママさんはすかさず「会社が私のお荷物です」と切り返しました。

 シャンソン・クラブの他には、そうですねえ、文士バーと言うのが有りました。文士さん達がよく来るバーなのですが、私が担当した1年間で私は1度も文士さんには会いませんでした。文士さんの来店時間が遅かったのでしょう。

 文士バーのママは、貫禄の有る、びしっと和服を決めた、私よりも年上の押し出しの良い人でした。お店はママの他に大変若いチイママと大変若いホステス、そしてカウンターの中に男性の店長という構えです。私はママに少しばかり恐怖感を覚えていましたが、ママが出勤して来るまでチイママやホステスさんと盛り上がっては楽しい時間を過ごしました。

 文士バーのママは赤坂でお蕎麦屋さんも経営していました。お昼過ぎにお蕎麦屋さんでママに会いますと、ママはすっぴんのように見えました。文士バーでチイママに「ママは赤坂ではすっぴんですよね」と言いますとチイママは「赤坂でもお化粧してるわよ。こっちに来る時にはその上に更に塗って来るの」と言って笑います。私が「そうかあ、上書き保存って訳ですね」と押し返しますとお店中が爆笑でした。会社でパソコンが急激に普及していた頃のジョークです。その後ママが出勤して来て怖かった事。

 ある時文士バーのママから赤坂のお店に来て欲しいという連絡が有りました。お蕎麦屋さんへ行きますとママはビールのショーケースが欲しいと言います。お店ではE社のビールを扱っていましたので私がママに「E社のビールをうちに変えていただく訳では有りませんよね」と質しますとママは「お金なら払うわよ」と言います。私は「お金を払っていただけるのは大変有り難い事ですが、お店のお客様にそんな事は分かりません。うちのショーケースにE社のビールが入っていると、うちの営業姿勢が甘いと取られてしまいますから」とお断りしました。ママは好意でうちのショーケースを置きたかったのでしょうが、うちの会社としては困ったケース(例)でした。

 それからやや有って、私は再びママに呼ばれて赤坂のお蕎麦屋さんへ行きました。今度はママの私的なお話でした。「あなたと私とで共通の趣味を持ちましょうよ」と言います。「日曜日に土ひねりなんかいいんじゃない?」と続きました。私はママの好意には感謝しましたが、一瞬戸惑いました。押しの強いママの性格です。男と女の事、共通の趣味を持ってうまく行けば良いのですが、何かのはずみで感情的にもつれてしまったら事はママさんと私の2人だけの問題では済まないでしょう。銀座の文士バーでの我社の高級ウイスキーの取り扱いに響くかも知れませんね。私は自分の個人的な事情、つまり10年前に妻を亡くし、3人の子供達にはまだまだ手が掛かり、とても日曜日に趣味の世界を持つ事は出来ないのだと率直にお話ししてママのご理解をいただきました。

 銀座では業務店向けに最高級ウイスキーのキャンペーンをやりました。シャンソン・クラブも文士バーもお付き合いで1ケースは買ってくれましたが、3ヶ月後に再び同じキャンペーンのお願いに行きますと店長さんがストック棚を開いて見せてくれます。そこには前回に買っていただいた商品がそっくりそのまま残っていました。私は、こんな事を続けていて道は開けるのだろうかと心が痛みました。

 1999年の冬はミレニアム商戦で盛り上がりました。2000年が西暦のミレニアム(千年紀)に当たりますので、世の中は訳も無く高揚したものです。モーニング娘の「ラブマシーン」がヒットして、街は「失われた10年」の重苦しさをバンザイ突撃ででも払いのけようとしているかのようでした。

 あれから10年程経ちましたが、ああいったミニクラブは今でも営業が成り立っているのでしょうか。