純愛の向こうは

 SHは私より華奢で坊ちゃん狩りの似合うおとなしい青年でした。大学のクラブでは同期でしたがほとんど幽霊会員で、SHと私はむしろ学部が同じということで親しくし、高井戸にある彼の家へ遊びに行ったりしていました。

 大学4年生の就職活動をしていた時SHは私に、全国的に名の通った相互銀行を訪問するのだが1人で行くのも嫌だし一緒に行かないかと誘いました。SHと同行した私は金融機関に就職することは考えていなかったので訪問先では言いたい放題、それがかえって先方の眼に止まったらしく3日後には私のアパートに電話があって、私にもう1度来て欲しいと言います。今で言う内定とか内内定というやつですね。私は、自分は金融機関に就職するつもりは無くSHに同行しただけなので申し訳ありませんがSHを採ってはいただけませんかとお願いしました。SHに相互銀行から電話は無く、SHは最終的には大手の薬品メーカーに就職が決まりました。こっちの方がよほど魅力のある会社だと私も胸をなでおろしました。

 私は洋酒メーカーの東京配属になりましたがSHは大阪本社配属になり、大阪へ行ってしまいました。ですからそれからはSHと私は年賀状だけの付き合いになり、30才の頃SHが東京へ出張して来た時に横浜で1度飲んだことがあるくらいです。その時は他愛の無い話をしました。SHは結婚して神戸に家を買い、神戸から大阪へ通勤するという、傍目には羨ましい生活をしているようでした。

 平成4年頃、SHは東京へ異動になりました。年賀状の住所を見ると単身赴任者向けの会社の寮に居るようでしたが、私はすぐにSHと会うことは出来ませんでした。私は平成元年に先の妻を亡くし、その年に東京近郊の支店勤務になりました。自宅から1番近い事業所でもあり、3人の子供達を育てながら会社の仕事が出来るようにとの会社の配慮があったようです。最初の頃はここの勤務は大変助かったのですが、なにしろ仕事と子供達の世話だけの世界なので仕事の後に友人と会うことも出来ず、しまいには大変な閉塞感に苦しんでいました。この支店に結局私は5年居ましたので、SHが東京に来た時には、私は身動きが取れず、地理的にもSHと会う時間が取れなかったのです。

 翌年、異変がありました。私がSHに年賀状を出しても返信が無いのです。こちらの葉書は届いているのに音沙汰がありません。私は彼の身に何かあったのかと心配でしたが、私自身身動きが取れませんのでそのままにしました。そしてそれから4年程私の年賀状にSHの返信の無いことが続きました。平成7年には阪神淡路大震災があり、その時既に都心部に異動になっていた私は翌平成8年にSHの会社に電話をして、彼の寮の電話番号を教えてもらいました。日曜日にダイアルしますとSHが電話を取りました。久しぶりなので会おうよということになり、赤坂のバーで飲むことにしました。

 「地震は大丈夫だったのか」と聞きますと、「天と地がひっくりかえっていた」とSHは答えます。SHが必要な物を両手に提げて神戸の自宅にたどり着くと、家の中はテレビ等の家電製品や家具類が宙を舞った様子で大変などと言うものでは無かったそうです。彼の妻や娘は「幸か不幸か無事だった」とSHは言い、そして話を始めました。

 彼が44~45才の頃に女性の新人社員が入社してきて、程なく彼女がSHに惚れてSHも彼女を好きになった。2人が密会を重ねているうちに2人の関係は会社でも噂になり、上司から社内不倫の疑惑を何度か質されたがSHは否定した。そして確たる証拠も出ないうちにSHは東京へ異動になったと言います。そうすると彼女は会社を辞め、SHを追って東京へ出てきた。それでSHはアパートを借りて2人での暮らしを始め、会社の寮はそのままにしておいた。私の年賀状が届いても返信の無かったのは道理です。2人での生活は大変幸福で充実していたそうです。

 しかし良い事は長くは続きません。あの阪神淡路大震災が起こったのです。東京へ彼女の姉がやって来ます。彼女達の伯父さんが地震で亡くなったのだそうです。「これがお父さんだったらあなた、顔向け出来るの?自由な恋愛なんか止めて神戸に戻って来なさい」と言ってお姉さんは神戸へ帰って行きました。それからしばらくして彼女は心を決め、SHとの生活を諦めて神戸へ戻って行ったのでした。

 「短かったけれども僕にとっては1番幸せな時だったよ」とSHは宙を見つめました。

 翌平成9年にSHは再び大阪本社へ異動になり、神戸の自宅へ戻ります。平成10年の年賀状を私はSHの自宅へ送りました。するとどうでしょう、彼の奥様から喪中葉書が届きました。それにはSHが昨年亡くなったと書いてありました。

 「人間はこんなに短い時間で死ぬのだろうか」が私の率直な反応でした。毎晩睡眠薬のお世話になっているとは聞いていたが何と言う病気だったのだろうか、あるいは。

 SHの事を私はどう評価したものでしょうか。確かに社会的に見ればこれは間違いなく不倫です、SHに分は有りません。しかし友達として彼の心の中を覗いてみると、それは浮気では無く純愛です。そして純愛だけに始末が悪い。SHは人生の途中で脚を踏み間違えたのだけれども、それは何処だったのだろうか。結婚の決断をした時だろうか。東京での2人暮らしを決断した時だろうか。いや、待てよ。

 大地震の時に彼は東京で同棲生活をしていたのだが、神戸の自分の家を見に行っている。彼の純愛の心とは別に彼の軸足は神戸の自宅と東京のアパートの両方にあったのだろうか。そして彼女はそれをどう思っただろうか。軸足が両方にあったのならばそれは純愛ではなくて浮気だということにはならないか。ただの優柔不断?それとも彼の受身な性格?

 新人社員の彼女がSHに惚れた時、彼はそれを受け入れました。彼が東京へ異動になり、彼女が彼を追って東京へ出てきた時にも彼はそれを受け入れています。そして最後に大震災の後、彼女が彼との生活を諦めて神戸に帰って行く時にも彼は受け入れました。

 もしかしたらこの厳しい世の中で、彼の受身な態度、優しさ、弱さに彼女は安らぎを覚え、そして惹かれたのかも知れませんね。