ピアノの先生

 1969年に入社した私の初めての仕事は東京都足立区担当の営業でした。研修期間中に先輩社員との得意先同行訪問をしていると、それは自分の仕事では無いものですから、責任感や緊張感が持てずについつい先輩社員の横でウトウトしてしまうため、係長にお願いして通常よりも早めに担当を持たせてもらいました。会社は新入社員にいきなり難しい仕事は与えません。楽なエリアを担当させて段々に仕事に慣れてもらおうという訳です。ですからしばらくして仕事に慣れてくると、日々の仕事が平板で退屈に思えるようになりました。

 私は洋酒担当でしたが私の同期生が同じ足立区のビール担当だったので、2人で語らって、なんとか生活にリズムを付けるためにヤマハ音楽教室に通ってみようということになりました。週に1度、就業時間が過ぎたら会社に直帰する旨の電話を入れて、北千住駅の近くのビルにある音楽教室に通うのです。同期生はエレクトーン教室を、私はピアノ教室を選びました。

 エレクトーン教室とピアノ教室は別のフロアでした。私がピアノ教室に入ると、受付に2人の女性がいました。私のようなサラリーマンが音楽教室に入会するのがよほど珍しいらしく、「どうしてピアノ教室に入会するのですか?」と聞かれて私が「今更プロになりたい訳ではないのですが」と答えると、受付嬢に鼻で笑われてしまいました。入会手続きを終えて私はピアノのブースに案内されました。

 しばらく待っているとブースにピアノの先生が入ってきます。先生は年の頃は私と同じくらいでしたが、私よりもずっと大人びた感じの、体の細い洋風美人でした。私はバイエルの1番から練習を始めることになりました。そして毎週教室に通っていると先生も打ち解けてきて、個人的な感想なども話してくれます。ピアノ教室の先生をやっていると収入はいいのだが教える相手が子供ばかりなのでつまらない、だから私のような生徒は大歓迎なのだそうです。私も先生も毎週のこの教室が少しばかり楽しみになっていました。

 冬のボーナスの時期が来ました。当時の私の会社は、ボーナスだけは超エクセレントでした。年間で基本給の10ヶ月、つまり夏と冬とで5ヶ月分ずつ、初任給40500円の私でも20万円も貰えたのです。ですから入社2~3年の女子社員の手にするボーナスの実額が、その父親のボーナスよりも多いという話も当たり前のように社内では話題になっていたものです。

 当時はヤマハのアップライト・ピアノの新品が20万円で買えました。私はピアノを買うことに決めてピアノの先生に相談しました。先生はヤマハに知り合いがいるので紹介してくれることになり、私は先生と2人でヤマハへ買い物に行きました。ヤマハの青年は私がボーナスでピアノを買うと聞いて驚き、「凄い会社ですねえ」と感心していました。彼はおまけにLPレコードを3枚ほど付けてくれました。独身寮の私の部屋にピアノが納品されるときに寮母さんは、独身寮の床が抜けるのではないかと心配げに立会っていました。鉄筋4階建ての独身寮の床が抜ける訳も無いのにと私は呆れていました。会社では私の上司の課長が私に聞きます、「テレビは持ってるの?」、「いいえ」と私。「自動車は?」、「いいえ」。「ピアノが弾けるの?」、「いいえ」。課長はあほらしくなってそれ以上質問をしませんでした。4畳半の部屋にピアノが入ると、部屋はかえって広く感じられました。

 ピアノの先生に私は、彼女の父親のやっている会社でクリスマスパーティーをやるので来ないかと誘われ、私は行ってみることにしました。板橋区だったと思いますが、広い道路に面した小さなビルがお父上の会社でした。アパレル関係の会社らしく、パーティー会場の部屋には20人位の若いお針子さん達が集まっていました。どうやら社員向けの慰労会のようです。やさしそうな社長さんの挨拶の後パーティーが始まり、ダンス大会です。私は次々とお針子さん達のお相手をしました。吉田拓郎の「結婚しようよ」がかかったのを覚えています。終始ニコニコしていたピアノの先生はラストダンスになると私をお針子さん達から奪いました。彼女にしてみれば当然の権利なのですが、私はそこに先生の勝気さを見ました。

 翌年の夏頃には私のピアノも少しは上達し、バイエルの100番を練習していました。ピアノの先生は私に、ヨット遊びに来ないかと誘います。先生を含めた4人で1艘のヨットを所有しているというのです。先生はまた、彼女には同性の友達はおらず、友達は皆男の子ばかりだとも言いました。ですからヨットを共有しているのは彼女と、3人のボーイフレンズということになります。私はこれも行ってみることにしました。

 3人のボーフレンズは皆私よりも体格のいい、いかにもお坊ちゃんという感じの青年達でした。ピアノの先生はヨットには乗らず、ヨットに乗るのは3人のボーイフレンズです。私は心得が無いのでヨットに乗るのは遠慮しました。ボーイフレンズは私に、ヨットを海に着水させるのを手伝ってくれと言います。「いいですよ」と返事をして私はヨットを陸から海へ着水させるコンクリートの斜面でヨットに取り付いたのはいいのですが、斜面は藻でヌルヌルしていて、私はヨットと一緒に斜面を滑って肩まで着水してしまいました。

 ヨットが海上遠くを進んでいるのをピアノの先生は海辺から眺めています。先生の水着は大胆なビキニスタイルで、ビーチに腰を下ろした先生は右手を額にかざし、髪を潮風に吹かせています。私は先生のビキニ姿に性欲を覚えるよりも前に、先生の自己顕示欲に当惑を覚えていました。

 ヨットが戻ってくると皆でペタンクという遊びをしました。かなり重いボールを下手投げで的近くに落とすのを競う遊びでしたが、面白くなかった。だいたい女性1人に男性4人ですよ。私は3人のボーイフレンズ達が表面的には楽しそうにしているのが不思議でした。こんなの、楽しくなんかありません。夜になって3人のボーイフレンズと私の4人は2段ベッドが2組備わった部屋で一緒に寝ることになり、4人でウイスキーを飲みました。ピアノの先生に性的な意欲を持っていないのは私だけで、3人のボーイフレンズはそれぞれに競っている様子がありありでした。私はなんだか、ピアノの先生に男性4人がこの1部屋に囲われているようなとても嫌な気分に捕らえられていました。これは大変な屈辱ですよ。

 屈辱のヨット遊びから戻った私は、それからもう、ピアノ教室には行きませんでした。私の担当が足立区から離れ、普通ならベテラン社員が担当する激務の台東区に変わったのは、それからすぐのことでした。

 皆が生意気だった若き日の1コマです。