シッディス

 私が初めてインド旅行をしたとき、行きたかったのはカルカッタ、ヴァラナシ、アラハバードの3ヶ所でした。この3ヶ所を終わってニューデリーへ向かったのですが、私はニューデリーにはなにも期待しておらず、「ことのついで」という感じでした。実際、ニューデリーの博物館での1件を除いて、なにも得るものはなかったと思っています。ニューデリーで博物館に入ると、そこに土産物の売店がありました。ガラスケースの中を見ると、なんと、ハラッパーの遺跡から発掘されたヨガ行者(パシュパティナート)をかたちどった印章のレプリカを売っていたのです。私はこのレプリカと野牛の絵の印章のレプリカを買いました。ひとつ30円か50円くらいだったと思います。それでも私には大変な宝物です。

 ニューデリーでホテルにチェックインした日の翌日は車でタージマハールを見に行きました。博物館へ行ったのはその翌日です。ホテルに戻ると私はホテルの庭を歩いてみました。すると、白い上下の服を着て頭にはターバンを巻いた背の高い男が私に声をかけ、庭の大きな木の下へ呼ぶのです。男は小さな写真のアルバムを私に見せて、自分はこれこれのアーシュラムでヨガの修行をしたのだと言いました。写真はアーシュラムでの記念写真のようでした。男は小さなメモ紙を折りたたんで私に握らせました。「なにか、お花を考えてください」、私はバラの花を思いうかべました。男が私のメモ紙を広げると、そこには「ROSE」という鉛筆文字がありました。次に男は、「あなたの奥さんの誕生日を思いうかべてください」と言います。私が「7月4日」と思いうかべると、紙には「7/4」の文字があります。「あなたのお母さんの名前は?」「ミヨコです」、すると私のメモ紙には「MIYOKO」の文字があるのです。その度ごとに男は私からお金をもらって自分のアルバムに挟みます。不思議なこともあるものです。

 しばらくすると男は私に自分の持っているドル紙幣を見せ、これをホテルの両替所へ持っていってインドのルピーに両替してきてほしいと言います。私は、私1人では行かないから私について来なさいと言ってホテルの建物へ向かって歩きはじめました。そして後を振り返ると、男はもう、いませんでした。

 ヨガの修行をしていると、ある種の力が備わってくると言われています。その力のことをシッディスといいます。実際、ラヒリ・マハサヤが自宅で瞑想していると、彼の身体が空中に浮かび上がった、そしてそれ以降、彼の奥さんは彼の瞑想の習慣について文句を言わなくなったというお話しがあります。私もヨガ道場のチーフ・インストラクターの先生に、「幽体離脱したことある?僕はあるよ」と言われたことがあ ります。「私はありません」とお返事しました。また、先生のことを羨ましいとも思いませんでした。ニューデリーでのあの男が手品を使ったのか、またはヨガのシッディスを使ったのか私には分かりません。

 最近テレビで、芸能人を相手に、「あなたの前世はこれこれでした」とか「あなたの亡くなったおじいさまはこう言っていますよ」などと言う人がいます。私は彼は本当にそういうことが見えたり聞こえたりしているのだと思います。それが「心のマジック」なのか「ヨガ・シッディス」なのかは私には分かりません。仮にそれが「ヨガ・シッディス」だとしましょう。問題は彼が、相手の人の前世が見えたり、亡くなった人の話が聞こえたりという状態に満足して、そこに、そしてそんなところに安住してしまっているということです。それではいくら力があっても、私がニューデリーで出会ったヨガ・マジシャンと同じではないですか。ヨガの目的はヨガ・シッディスを得て、それを使って食べていくことではありません。

 それよりも、自分の前世や亡くなった人の言葉を聞かされた人にとってそれは良いことなのでしょうか。私は、それは決して良いことではないと思います。自分の前世を知ることや既に亡くなった人の言葉を聞くことによって、今を生きている自分自身の主体性を制約されてしまう可能性が高いからです。涙を流して納得している芸能人が、それをきっかけに、より力強く生きていけるものなのでしょうか。私は、それは逆だと思います。前世の人や既に亡くなっている人に自分の主体性を犯されて、気持が萎えてしまいそうです。自分の前世や、亡くなっている人の言葉は、他人から聞かされるものではありません。自分で苦労して自分で知ることです。また、知りたくなければ知らなくてもいい、どうでもいいことです。

 自分の私生活を言い当てられてびっくりする芸能人もいます。私の反応は、「それで、何か?」です。あくまでも主体性を放棄してはいけません。自分の主体性を主張することが、ゆくゆくシッディスを獲得することに繋がっていくのだと私は思います。

 後日談。

 インドから帰った私は、ヨガ道場の生徒さんでインド旅行を計画している人達に、「ニューデリーへ行ったら博物館へ行って、ハラッパーの遺跡から出てきたヨガ行者のかたちの印章のレプリカを買ってくるといいですよ」と話しました。そして彼らがインドから帰ってくると、博物館では、もうレプリカは売っていなかったと聞かされました。