お墓の効用
生と死は、無が有に転じるか、有が無に転じるかの、言ってみれば生命の同じ働きではあります。でも赤ん坊が生まれてきたとき、私たちは「あれ、なんで昨日まで影も形もなかったものが、ここに居るの?」と、無が有に転じたことをそんなに不思議には思いません。やはり、腕の中に現物があるので、受け入れやすいのです。納得しやすいわけです。
一方人が死にますと、昨日まで元気だった人が今日はどこにもいなくなります。消えてなくなったのです。残された人達にとって、これはなかなか受け入れ難いことです。納得できません。居たのに消えた。
そこで残された人達は遺骨が散逸しないように決まった場所に埋葬し、そこに誰々さんは確かに生きていましたと確認するために目印を立てるのです。残された人達は死んでしまった人がもういないのに、今もそのあたりに居るように感じ、どういうことか分からないことに直面して嘆きます。その気持が強いとき、残された人達はお墓参りをして、あの人は間違いなくこの世に居たのだと、確信を新たにするのです。それはその人が消えてしまったことに慣れるまで心の調整作用として続きます。10年以上はかかります。
ですからお墓は、死んだ人のためにあるのではなく、残された人達のためにあるのです。
一方、死んでしまった人は死の世界、あるいは死後の世界に向かってどんどん進みます。恐さ半分、好奇心半分、ワクワク感が一杯で、とても残された人達の心配をする余裕などありません。ご先祖様がお墓に居て後世の人達を評価するなどという考えを私は却下します。お墓は残された人達のためにあります。
ですから私はお墓というものは、残された人達が互いに争わず、ともに心の調整、沈静化ができるように、納得できるようにすれば、それでいいのだと思います。
生と死は、無が有に転じるか、有が無に転じるかの、言ってみれば生命の同じ働きではあります。でも赤ん坊が生まれてきたとき、私たちは「あれ、なんで昨日まで影も形もなかったものが、ここに居るの?」と、無が有に転じたことをそんなに不思議には思いません。やはり、腕の中に現物があるので、受け入れやすいのです。納得しやすいわけです。
一方人が死にますと、昨日まで元気だった人が今日はどこにもいなくなります。消えてなくなったのです。残された人達にとって、これはなかなか受け入れ難いことです。納得できません。居たのに消えた。
そこで残された人達は遺骨が散逸しないように決まった場所に埋葬し、そこに誰々さんは確かに生きていましたと確認するために目印を立てるのです。残された人達は死んでしまった人がもういないのに、今もそのあたりに居るように感じ、どういうことか分からないことに直面して嘆きます。その気持が強いとき、残された人達はお墓参りをして、あの人は間違いなくこの世に居たのだと、確信を新たにするのです。それはその人が消えてしまったことに慣れるまで心の調整作用として続きます。10年以上はかかります。
ですからお墓は、死んだ人のためにあるのではなく、残された人達のためにあるのです。
一方、死んでしまった人は死の世界、あるいは死後の世界に向かってどんどん進みます。恐さ半分、好奇心半分、ワクワク感が一杯で、とても残された人達の心配をする余裕などありません。ご先祖様がお墓に居て後世の人達を評価するなどという考えを私は却下します。お墓は残された人達のためにあります。
ですから私はお墓というものは、残された人達が互いに争わず、ともに心の調整、沈静化ができるように、納得できるようにすれば、それでいいのだと思います。