秋葉原大量殺人

 今回の事件では犯人には極刑を処してもまだ足りないという気がしますが、この事件は犯人の性癖によるものではなく、事件がなにか時代を映している気がするので、私の頭の中で私は犯人の青年になってみました。

 彼は青森県の進学校といわれる高校に入りましたが成績が振るわず、大学への進学に挫折します。そして岐阜県の短大に入りますが、今度は資格の取得で挫折します。そして就職活動でも挫折して職を転々として、最後に東京都大田区の派遣会社に登録して、静岡県裾野市の自動車工場で派遣労働者として働きます。工場で正社員が派遣労働者を差別したりいじめたりすることは、有り得ることです。彼は職場に不満を抱きます。また、派遣労働者というのは雇用調整のためにあるのですから、彼が先行きに不安を抱くのも当然です。数々の挫折を経たあと現状に不満・不安を抱えた彼は大量殺人にだけは成功しました。彼は人生のターニング・ポイントでは次々と挫折したのに、大量殺人にだけは成功した、これは皮肉なことです。

 なぜ、そういうことになったのでしょうか。彼が人生において次々に挫折したとき、彼には集中力が ありませんでした。殺人のときになって初めて彼は集中力を発揮します。わざわざ福井県までナイフを買いに行きます。秋葉原の下見もします。レンタカーを借りて現場まで行くのにも冷静です。

 彼の人生の道筋を辿ってみると、彼がだんだん孤独になって行くのが分かります。彼には友達を作るチャンスが2度ありました。高校生のときと、短大生のときです。彼には友達が出来なかったようです。

 さて、彼の犯行に至る道筋を辿ってみます。①数々の挫折→②現状への不満と先行きへの不安→④大量殺人、となります。①から②への移行は私にも分かります。でも、②から④への移行が私には分かりません。不満や不安は誰でも持っているものですが、それは殺人には繋がりません。②から④に至るには、③という新しい要素が必要です。そうでないと話が繋がりません。

 それでは③の要素とは何だったのでしょうか。「携帯電話の掲示板」です。彼は携帯電話からインターネットの掲示板に書き込みを続けました。彼は自分の感情を綴るのですが、誰も関心を示さず、「その考えは違うよ」とか「こういうふうにしてみたら?」といった批判やアドバイスを受けることなく書き込みを続けます。その結果、彼は自分の書いた文章を自分が読んで満足する、「表現の自給自足」の状態に陥ります。

 彼が自分の書き込みを何度も何度も読み返しているうちに、彼の「感情の書き散らかし」はだんだん確かなもの、つまり「確信」へと変質していきます。最後に彼は自分が作り出した「確信」によって衝き動かされて行くのです。

 警察官に取り押さえられたとき、彼は達成感を感じてはいなかったと思います。犯行が終わると、彼を衝き動かしていた「確信」は消えてしまいます。何で自分はこんなことをしてしまったのだろうと、彼は自分のことが分かりません。

 マスコミがコメントしているような、目立ちたがり屋による劇場型の犯罪ではないと私は思います。社会的にはもっと、根が深いです。

 最後に、不気味なものを見てしまいました。被害者の友人、彼は大学生なのですが、当日の彼のブログに、「後を見ると・・・いなかった」などと事件の様子を書いたり、「神様がいるのなら、なんでこんなことが起こるのだろう」といった、女子中学生のような、幼いコメントを書き綴っているのです。「表現の自給自足」です。彼が大学を卒業して社会人になったとき、彼は加害者の置かれていた環境にいる可能性もあるのですよ。