神様は男性か女性か

 神様は男性か女性か。いやその前に、神様は人格を持った人格神なのでしょうか、それとも人格を持たないなにものかなのでしょうか。

 百何十年か前にカルカッタのドッキンネッショル寺院で修行をした聖者で、ラーマクリシュナという人がいます。そのラーマクリシュナの弟子でインド思想を欧米に紹介したヴィヴェーカーナンダという人がいるのですが、おもしろいことを言っています。

 本当はブラフマン(梵)とアートマン(我)の合一があるだけだから、神には人格は無い。しかし、人々が神の概念を持つためには、神にも人格を持ってもらったほうが分かりやすい。犬や猫がもし神を持つとしたら、犬や猫の神様は人間ではなく犬や猫として現れるだろう。人は人格神を持つことで、宗教に入りやすくなるのだ。宗教の始めの段階ででは、人格神を持つことは悪いことではない。本当にそのとおりですね。

 一方、バグワン・シュリ・ラジニーシという人も、おもしろいことを言っています。インドの神様は男の神様でも女性的な顔立ちをしている。ひげを生やした神様などインドにはいない。
 なるほど、インドの神様の絵を見ると、シヴァ神もヴィシュヌ神も、ラーマもクリシュナも皆、女性のようなやさしい顔をしています。人は神に何を期待するのでしょうか。もし人が神に復讐や正義の審判を願うのなら、その神様は男性でないと具合が悪い。でも人が神にやさしさ、救い、やすらぎを求めるならば、その神様は断然女性ということになりますね。

 宗教の発達とともに神様は男性から女性に変わり、そして最後には人格を脱ぎ捨てるのです。

 イエス・キリストは神のことを「父」と呼んでいますね。でも本当は「母」と呼びたかったのだと私は思うのです。イエス・キリストが「愛」を説く相手はユダヤの人達でした。ユダヤの神ヤハウェは信仰を条件に復讐と保護を約束する男性の神様です。イエス・キリストは人々にユダヤ教のきまりのなかで、愛と救いの神を説く必要がありました。だから神を「父」と呼んだのですね。でもイエス・キリストの説く神は非常に女性性が強いのです。そういうことからも、中世になってマリア信仰が現れたのは当然の流れだったのでしょう。