喜怒哀楽

 会社の上司で、「喜怒哀楽の感情こそが人間の本性だ」という人がいました。そういうふうに思っておられる人も多いと思いますが、違います。

 喜怒哀楽の感情はどういうふうに起こるのか考えてみましょう。

 「喜」。欲しいものが手に入ったときに「喜び」の感情が起こります。
 「怒」。欲しいものが手に入らないときに「怒り」の感情が起こります。
 「哀」。持っているものを失ったときに「悲しみ」の感情が起こります。
 「楽」。身のまわりが快適なときに「安楽」な感情を得ます。

 このように喜怒哀楽の感情は、外部からの刺激に反応するかたちで起こります。「反射覚」、「反応覚」とでもいうべき働きであり、決して外部からの刺激なしに自ら発する、つまり「自発」するものではありません。そういう意味ではこの「心」の働きは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚といった「身体」の働きと似ていますね。いや、似ているというよりも同じだといっていいかもしれません。

 それでは、外部からの刺激がなくても「自ら発する」、「自発」する人間の本性というものはあるのでしょうか。あるのです。

 私はこの問題の回答を、「サーンキヤ哲学」によって得ることができました。ヨガの2大根本経典として、パタンジャリという人が書いた「ヨーガ・スートラ」と、イーシュヴァラクリシュナという人が書いた「サーンキヤ・カーリカー」という本があります。
 「ヨーガ・スートラ」は実践の書です。こういうふうにヨガを練習していけば「サマディ」と呼ばれる「悟りの境地」に至れますよ、と丁寧に教えています。  一方、「サーンキヤ・カーリカー」はヨガの世界観を示す哲学の書です。ここに書かれている思想を「サーンキヤ哲学」といいます。


 「サーンキヤ哲学」は二元論です。まず、「プルシャ」と呼ばれる「精神原理」と、「プラクリティ」と呼ばれる「物質原理」の2つの原理をたてます。

 「プルシャ」と呼ばれる「精神原理」は「展開」や「変化」することがありません。「プラクリティ」と呼ばれる「物質原理」がどんどん「展開」していくのを、ただ、じっと見ているだけです。「プルシャ」は「男性原理」です。
 一方、「プラクリティ」と呼ばれる「物質原理」は、これは「女性原理」なのですが、どんどん「展開」していきます。「心」の働きとして、「身体」の働きとして、そして人間の環境世界の働きとして。

 私たちは日頃無意識のうちに、「心」と「体」という二元論をたてています。「心」の働きと「体」の働きを区別しているのですが、これは西洋哲学の影響だと私は思います。
 喜怒哀楽という「心」の働きを「体」の働きとは区別して、人間の「主体」である、「本性」であると思わせているのです。

「サーンキヤ哲学」では「心」の働きも「身体」の働きも、「プラクリティ」と呼ばれる「物質原理」から「展開」した、根っこは同じもの、同じ性質のものとしてくくっています。そしてそれとは別に「精神原理」である「プルシャ」をたてているのです。

 インド哲学では個人についている「霊性」を「アートマン」と呼び、世界にまんべんなく存在する「霊性」を「ブラフマン」と呼んでいます。「サーンキヤ哲学」の「プルシャ」は、この「アートマン」のことなのですね。

 ちょっとややこしいお話しをしましたが、ここのところはどうしても、押さえておいてほしいのです。

 そういうわけで、喜怒哀楽は人間の「本性」ではありませんでした。