10月 26日 2020年
福島への旅 最後の日。
わたしの 福島への旅 最後の日 の出来事を綴る。
その日は、仙台空港から神戸空港への帰路
という事で、
父の行きたがっていた、、というか、
この旅中、
わたしに 父が
父:「連れて行っちゃる」
と言った場所の、3分の1ほどしか行ってない中で、
父:「松島。松島よ、ほれ、"松島や、あぁ、松島や、松島や" のところ」
と、
この 句を、ほぼ毎日、1日に2〜3回は言うので、
学のないわたしもわたしだが、
私:「何それ? そうゆとこがあるん?俳句?」
と、ピンと来ずまま。
父いわく、松尾芭蕉の句だそうで、
先ほど調べてみたところ、
本当は違うらしいですねえ、、。
それはさておき、
10月26 日の朝は、すき家で朝食。
わたしはサバ定食を頼んで食べた。
とりあえず、仙台空港から神戸行きの飛行機が飛び立つのは、午後7:00 (19:00)
その前に、連日父が " 松島や あぁ松島や 松島や "しか言わない宮城県の観光スポット
日本三景の一つ、「松島」に寄って、仙台空港というプランで、
それでもまだ、父は「岩手県の どこどこにも、」だの、、" エッ、えっ、自覚ないんすか、" おぞましさも、何周もまわって、同じ温度のおぞましさである。
その日はわたしも朝にお風呂に入り、
その後父がお風呂に入っている間に、帰りの身支度を素早く済ませた。
マジでわたしのことを、
何にもできない、やる気もない、我慢もしない、努力もしない と、思い込んでいる父は、
昔から変わらぬ THE・烏の行水 の如き速さのバスタイムを終え
(実は、わたしも父に言えた口ではない烏の行水)
、わたしの完璧な素早い身支度に、
父:「えっ?杏ちゃん もう荷物したがかい?早いねぇ」
と 驚くので、
私:「(妹の名)んちに、(甥の名)くんが赤ちゃんで大変やった時に週末手伝いに大阪行ってたやん?
(妹の)旦那さんがおらんから、寂しいから来て〜って、行くんやけど、急遽旦那さんが帰宅する連絡が入ったら(わたし)にように、帰らされよったけん、こういう事は早くできるようになったんよ」
と、言うと、
父:「そうか!笑」
といつも通り謎のウケ。
お昼頃、父の、ガンガンタバコ吸える、吸いまくれるという利点にのみ尽きる車で、
3日間お世話になった、悔しいけどわたしの家よりは綺麗に来ていた父の福島での家を出た。
馬が駆け回っていたのが想像出来る南相馬市の広い空、遠い山並み、平らに続いて、空気の色が見える長閑な風景に、
わたしは、心の中で「バイバイ、ありがとう!また来るね!」と言いながら
目に景色を焼きつけて、車は高速道路に入った。
わたしの今回の旅の目的、そう、それは、「平穏」。つまり、ヒッピーだ。
先ずは、不穏な空気になる要素である、
「焦り」は、
無理に予定を詰め込んでも、殆どこなせてない父の打率の低さから、計算。
1つ. 岩手県には今回は行こうとしない方がいい
2つ.先ずは、最終目的地店である仙台空港の駐車場所を把握するため、仙台空港に寄る
3つ. あとは、松島に行けようが行けまいが、時間は2〜3時間余裕を持つこと
これで、最低限、「 焦り 」によって心に余裕がなくなる予測出来る可能性は対応できる。
道に迷っても、不穏な空気も笑える。というこのような対処法は、わたしは、普段、
日常、一人ではどうしても考えも出来ず、坩堝にハマって 陥ってしまう失敗要素なのだが、あんまり、頼りない父の前では問題が外側から見えるからだろうか?
案外、父を介して自分の抱える問題や、そのアンサーのようなものが見えやすくなるのかもしれない。
人の振り見て我が振り直せとは、最高の学び方でもある。
わたしは22歳頃、眼を怪我して乱視になるまで、視力が振り切って、めちゃくちゃよく見え、
怪我をして眼鏡をかけたりコンタクトを入れている現在、0.7、1.0 くらいなのだけれども、
元々が 2.5 振り切っていたので、相対的には眼鏡をかけるほどでもないと言われることもあるし、
わたしも眼鏡が似合わないのでかけたくはないのだけれど、
めちゃくちゃ見えなくなってるというのは実感しているので、作業のときは眼鏡は必須だ。
そして、この視力は、わたしだけ家族でやたらと視力だけは良かった、というか、見えてた、というか、
視力だけが取り柄と言っても過言ではないと自負していたほどだったので、
方向音痴、眼鏡一家では重宝されるのが、見知らぬ土地などで、高速道路や、道路標識、遠くに書いてある地名や距離などを読み上げる
ということができていた。
しかし、わたしの視力も低下の一途を辿っている現状、昔のようにナビが出来ない。
そして、父は、ナビを信じない。
更にわたしも父も、方向音痴で、土地勘が無いのだから、
早速、宮城県に入って間も無く高速を降りてからぐるぐるしつつ、
わたしは、大きな貨物トラックが増えてきてる方向、
高い建物がなくなり、殺風景というか、淡白というか、
うわぁ〜!飛行機飛びそう!!
という空気を嗅ぎつけながら、
私:「あっ!離陸したてっぽい飛行機やん!」
と、
だんだんそれらしくなってきた方向へとナビゲート。(先ず、大前提に、方向音痴が遺伝でどちらもそれほどにヤバいです)
仙台空港の建物自体を発見したが、入り口がわからず、いつものようにバカみたいに
ぐるぐるぐるぐるして、なんとか入って駐車可能かをチェック。
すると、タクシー乗り場で、駐車出来ず、というか、駐車できる場所を探してうろついていたところが駐車場で、まぁ、ひと笑いしといて、、。
(笑うて間に合うのなら笑うとかな、マジで過失の粋やからな、)。
父:「よし! もう 絶対大丈夫や!!時間もバッチリやし!! ほんじゃ、松島行くか〜!」
と、
父が、一番楽しみにしていた松島へ。
仙台空港の敷地内からようやく出られてからは、
もう、土地勘のなさ、
わたしの視力ナビも役に立たなさ、
父の方向音痴の癖に何故か毎度のカーナビの無視、らを兼ね添え、
わたしの、
「焦り対応プログラム」は、ますますの活躍を見せていた、、
順調、順調、、、、
すると、、突然、何やら不穏な空気が、そよ風のように差し込んできた、、
父の運転がスピードを落とし、何者かに誘導され始めている!
これは、わたしの最も苦手とする、"臨機応変" というものでは!!
私:「えっ?えっ?何?ケーサツ?」
と、焦って後部座席のシートベルトを装着確認していると、
父:「えぇ〜、、何〜、、?」
と、言いながら、誘導されるがまま、
我々を乗せた臭い車は 道の脇の方に。
一時不停止だった。
父のテンションがどんどん下がっていく、
もう、それはもう、見る見る下がって、苛々の「苛」に、片足突っ込みかけている。
免許証を見せ、どこに一時不停止があったのか、
目の前に大きなトラックが居ただとか、誰も止まってない居なかっただとか、
初めて来る土地だったからとか、そういう感じのことで、
父は、納得のいかなさを
「、えぇ〜、、、」
「ぇ、ぇぇ〜、、、」
という、虫の声のような「ぇ~、」一文字の音で繰り返している。
、、、ヤバい。、これは想定外もいいところだ
ヤバい。このままではヤバい。
まさかのここに来ての、我が子の前で、切符切られんのは居た堪れない。
「よし!!行くぞー!!」
のテンションからの切符切られは
高低差でヤバイ、ヤバイぞ、、
父にも僅かにあった、
『車を運転して連れて行っている』という威厳が抹消されてゆく、、
なんてこった、、どう持ち返すか、、
一連の父と宮城ポリスメンの方達とのやり取りを後部座席で、
せめてもの緩和、"気配を消す"に とりあえず切り替え、
ようやく解放されて窓を閉め、
数メートル走り始めたところで、
私:「クッソゥ!!ポリが!チキショー!!笑」と、
これは、父の駄々下がりテンションへの配慮としてのパフォーマンス。笑
父も、
父:「ほんま くそぅ!!一時不停止ら、見えらった(見えなかった)よねえ!笑」
と、
私:「うん。見えんかった。罰金、高い?」
と、訊くと
父は、
父:「う、うん、、まぁ、罰金はそない大した事ないけど、、。せぇーっっかく、ゴールドやったのになあ〜!」
と。
私:「マジか〜。」
そこで、わたしも高校3年生の誕生日の帰り道、
高校の校門を出たところで原チャリの一時不停止で捕まって、
土砂降りの天気の中、学校の誰にも誕生日など覚えていてもらえなかった虚しさで早く帰ろうとしていたのに、
いつもはそんなもんないような校門出たところで下校中の人達の晒し者のように、
雨の日の原チャリのかっぱ(レインコート)というのは、前ボタンだから、
脱いだときおしっこ漏らしたみたいにスカートが濡れるという見窄らしさと、
パトカーの中で、免許証を見た警察官に
「ヘッ!ww おまえ、今日誕生日やん!www」
と、言って笑われ、
わたしは泣くのを我慢して、
「、、はぇ、、そうですけど。」
と言って、指に朱肉つけて号泣しながら、
土砂降りの雨に打たれながら、帰り、
「母に怒られるな〜、」と、リビングのテーブルの上に罰金の紙を置いて、
現実逃避する為にベッドに横になって、しくしく泣いていたところ、
母が帰宅。
" 来るぞ、来るぞ、怒鳴られるぞ、、あー、最悪の誕生日や、、"
と、リビングでの母の動きに耳を澄ませて待っていると、
「杏ちゃーーん!!」
と、母の声。
わたしは、もう、素直にどんよりと
「はい、」と、一階のリビングに降りて行ったところ、
母は、ブチ切れ、
母:「 一時不停止かよ!!誕生日ぐらい多めに見ろや!! ねえ!!杏ちゃん!!!」
と、なんと、矛先はわたしではなく、ケーサツ。
その日ら、は妹と、母とわたしの3人で、楽しく誕生日を祝った。
ちゃんと、ケーキもあったが、
母の、あれは、わたしへの誕生日配慮だったのか、または、母が時たま見せる極道みたいな一面のただの本音だったのかは定かではないが、、。
そのエピソードを話して、
父と笑えたので、あの時の涙も、此処に来て
浄化できたというものであった。
だんだんと、観光地っぽさが漂い始め、海の方を見ると、風情、
まさに風情があった。
わたしは、父の「あぁ松島や」の連呼と、自身の学の無さから、
殆ど期待などしていなかったのだが、
めちゃくちゃ イイ!!!
ファンタスティック!!! ブラボー!!!
ビュリフォー!!!ワーオワーオ!!!
と、
盛り上がってきた。
父も初めて来たという、松島。
わたしは駐車場で車から降り、結構テンション上がっていた。
父のテンションも、なんとか枯渇のピンチ脱し、
とりあえず船に乗る事に。
海を見ていると、
どうやらお一人様で来られている、関西弁なまりの男性に
「お写真、撮りましょうか?」
と、声をかけられ、
この旅、初めてのまさかの父との2ショット。
そういえば父と2人で写真を撮ったのなんて、
小学校にあがる前ぶりとかじゃないかな?、すごく照れ臭いというか、加齢臭いというか、面倒くさいというか、いろいろ臭かった。笑
その男性は、
「撮ってもらっても良いですか?」と、
すごく、こちらが見ていてワクワクが感染るくらい、嬉しそうに、楽しそうに、
スマホを渡して来られたので、わたしは、その男性を写真に撮って、
私:「関西からですか?」と、訊ね、
男性:「京都からです」
私:「わたしは神戸からなんですよ〜」
男性:「ヘェ〜!!」
父:「わたしは、高知から、福島に今住んでて、娘と来ました。」
男性:「ヘェ〜!親子で!良いですねぇ!!」
私:「写真、ありがとうございました♪♪」
男性:「こちらこそ、ありがとうございました〜!」
てな具合に、わたしも普段、
お一人様なので、初詣などでよくやる方法、
小さなお子様連れの女性などを見つけ(←文字にするとなんか悪いニュアンスでヤバそう)、
「お写真撮りましょうか?」からの、
わたしもお願いして良いですか というよくやるやつ。
父が、なんか一瞬、会話に入ったような気もするが、
写真を撮ってもらっている間も、
「親子やのになぁ〜、」と、どうでもいいことを横で呟いていて、きしょーっとちょっと思った。
船の時間が来て、船で遊覧。
とっても綺麗な景色で、わたしは日本三景、
学もなく、なんとなく舐めててすみませんでした、と思った。
船から降りて、父と、本物の旅番組とかでよくやってそうな、
大きな牡蠣の貝に、醤油垂らして ごっくん食べるやつを食べた。
美味しすぎてあと4個食べたいなぁ、と、少し後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、お土産屋さんに入り、お土産を買って、わたしが欲しかったので買ったら、交通安全のお守りと書いてあったので、切符切られたての父に1つあげた。
お昼ご飯は、松島の駐車場から、一方通行で道を探して迷ったところにあった、
牡蠣飯とか色々食べられる市場のようなところを見つけて、そこで牡蠣づくしセットを食べたのは、
大きな牡蠣の貝の旨味がずっと離れなかったから。
さて、予定通り、我々の車は、なんとか道を出られて、
わたしの計算通りのちょうど良い余裕を持って
仙台空港へ走り出した。
父は、この日に、岩手観光まで詰め込もうとしていたのだから、岩手は次回ということにして本当によかった。
その上で切符切られてたら、わたしか父かどちらかが知恵熱で沸騰していたに違いない。
だんだん陽が落ちてきて、
「あぁ、そっか、日本にも時差があるんだよな、、この時間、神戸はまだ明るいもんな、」と、ついに東北旅行の終わりを感じ始めた。
しかし、此処まで来ればさすがというか、わたしにも身に覚えがある分、理解できるおぞましさが勝るのだが、
何度も高速に載せようと喋るナビを無視し続け、
どこかを曲がり続けて仙台のどこかをぐるっと回って、
仙台空港に着いたのは、搭乗手続き開始時刻の、1〜2時間前だった。
すっかり辺りは暗くなり、
多分父は飛行機慣れをしていないので、あらゆるシステムを何も把握、理解しておらず、挙動が少々不審なのだが、わたしがたまたま、飛行機好きなだけで、わたしもよくそうなるので
見てないフリを続け、
威厳が更に損なわれる可能性のある空港内に入るのは、搭乗手続きが始まるまで父と、駐車場の車内で待機することになった。
父は10分ほど仮眠を取り、まだ時間がある事から、
わたしが父の誕生日に贈った、竹原ピストルさんのCDを一緒に聴くことに。
父は、そのCDの中の好きな曲を選んで、
それは、「復興の花」という曲で、わたしが父にこのCDを贈ったのは、2014年、
福島に居る父に、もちろん、「チェリーボーイまこっちゃん」が収録されていたから、も、あるが、
この、竹原ピストルさんのアルバムのテーマが「復興の花」だったから、。
父は、そんなことも知らず、というか、聴いててかんじなかったのか、、?
だいたい4曲め辺りがアルバムのテーマみたいな感じの概念もな買ったのか、?
と、思いつつも、「復興の花」はとても良い歌で、わたしは竹原ピストルさんの声って、
涙が溢れ出てしまうから、後部座席でちょっと涙が漏れそうだったのを堪え、
父に、
私:「この曲が このアルバムのテーマなんやで」
と、説明し、
父:「ほうながかえ!これは、名曲や、」
と、言っていた。
このアルバムは、iTunesとかにもなかった、、かな、
わたしは当時、ふと見つけ、Amazonで、直で父に贈ったので、初めて聴く曲もあり、
殆ど朗読の、
竹原ピストルさんの言葉たちを、父娘、ふたり、
噛み締め、ゲラゲラ笑い、時間を過ごした。
耳に蜂が入って三半規管が狂ってものすごいスピードで走れるようになったのに、
ゴールの方向に走れないからタイムが測れなくなったピストルさんの友達の話の朗読で、父は一番爆笑していて、わかったことがある。
父は、結構、ヒトの、、言葉にすると極端だが、「不幸」や、「失敗」、「不運」が、笑いのツボのようだ。
それは、笑いとばすことで昇華出来る気持ちの笑いなのかな、と
思っていたりしたが、どうやら違う。
純粋に、このヒト(父)は、ヒトの不運のようなものを面白くって笑っている。....マジか。。
そろそろ空港に入ろうか、という時間になり、
わたしと父は荷物を持って空港に入った。
入るや否や、父はトイレに行った。
やっぱり、飛行機の搭乗手続きや、荷物、色んなことが全然わからないのを、わたしに悟られぬよう、
便意も我慢していた、、絶対に。
なんとなく時間は過ぎ、父にバイバイを言って
わたしは飛行機に乗った。
大好きな離陸時はなんともなかったが、着陸へと高度が変化し始めたとき、わたしの右耳から破裂音と、
悶えるような激痛が続き、神戸空港に着いた頃にはわたしの右耳はぶっ壊れ、左耳は、半壊といった感じで、
航空中耳炎を拗らせてしまった。
帰宅して、言われていた通り、父と母に無事帰宅の一報を入れた。
父は、LINEで、「了解。」しか、言えないので、
電話がかかってきた。
そして、わたしが、中耳炎で、今、耳ぶっ壊れていることを告げると、父はまた爆笑していた。
こうして、わたしの福島への旅は、終わったのでした。
完
aune
2020/12/09