わたしは、2016年現在、
32歳。

何か が、足りないということは、
何か で、補っている仕組み
その、補い に、いつも助けられ、
何度も、足りない事を確認してきた。

社会を知らない儘、
ぬくぬくと、守られて、
好き勝手に絵を描いてる、
甘えん坊の、若僧だと
よく、勘違いされる
それが、勘違い だったことを
理解すると、
とても、心が痛むんだろう。

わたしは、人生に、順序があるなら、
逆走して生きている
のかもしれない。
何かを理解する、また、考えること、知ること、
其れらに、年齢も、順序も無いんです。

全ての科目、カテゴリー は、
一つに繋がっていて、
別けられるような、
簡単なものではない。
だからこそ、晩年期 というところへ
ヒトは、
第二、第三 の生き方を夢見るのかもしれない。

わたしは、わたし という人間に
振り回されて生きている。

駆け抜けている。
何かを悟るつもりもない。
駆け抜けたって、
駆け抜けることを全うさせてくれないような
そんな世界であることぐらい、
見せつけられるよ、
この母体では。

ある程度、社会で生き、
人間として、生命として、
課されたものを、それなりにでも
成すことを経て、
余生を、愉しく、有意義に
それまで縛られてきた社会から
解き放たれて、
もう、守るべきものも、
失いたくはないものも、
身軽になるための人生から
自由を手に入れ、
嗜むもの。
それが芸術なのかもしれない。
そう思わされるのは、
わたしは、その一連の全てに挫折し、
身軽になるための人生
を、人並みにやってこられなかったから、
それを思い知らされたから、
それでも、生きることを
常に覚悟してきたから。

同じ情報、一つ でも、
情報量は、各々、平等ではないことぐらい
わかる。

芸術は、休み時間、
優雅な時間。
余生を嗜むための、ご褒美のようなもの。
確かに、そのぐらいが、
きっと、ちょうど良いし、
健康的なのだろう。

わたしは、わたしにとって、
まだまだ、人生半ばだけれど、
きっと、余生を嗜めるような
優雅な人間ではなかった。
それが、わたしにとって、
わたし に、足りないもの
それを補うことが、
人生半ばだけれど、人生そのもの。

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aune
2016.07.28