18歳で、高知県の高校を卒業後、
わたしは、兵庫県神戸市に、
進学のためやってきた。
正直、とにかく早く、
一人で 生きて行ける術 さえ身につけられれば、
とにかく早く、
家族や、親族達から身を引けられれば、
手段など、なんでも良かったし、
場所など、どこでも良かった。
わたしは、神戸市の、
とある専門学校の、グラフィックデザイン学科に
入学した。
特待生だったため、少し?息苦しいほど、
浮いてしまったのと、
わたしは、デザイナーに向かない
ということ、
絵を描いて生きることを、避けられない
ということを、
思い知らされた。
わたしにとって、当時、
絵を描くこと は、
単なる道具、ツールであり、
それを使って、社会で生きてゆく術を得ようと、考えていた。
だから、周りから見ればどうなのか知らないが、
わたしにとっては、
この上ない挫折感 を味わった。
先生方 や、先輩方、他の学科の生徒の方々、
掃除のおじいさん、
学校中の人々が、わたしを見に来たり、
わたしの言動行動、作るもの、
全てを見張られているようで、
何度かパニックを、起こしたりもした。
そして、2年生になって間も無く、
わたしは、
学校を中退した。
偉そうにも、
「絵なら、家で描きます」
と、言い、辞めた。
誰も止めはしなかった。
ただ、
そう告げた時の、担任の先生には、
「あなたはもうそこまで行ったのですね、
ただね、甘えてあげることも、親孝行なんですよ。
もう少し、親に甘えてあげなさい。」
と言われた。
ずっと、
「そこまで」って、どこやねん、「行った」って、どういうことやねん、
「甘えることも、親孝行」って、どうせえっちゅーねん、、
と、たまに、考えてきた。

学校を辞めてすぐ、古着屋に履歴書を、出し、
面接をした。
※このことは、ここでは、別の話なので
auneの社会科(auneの履歴書)の、別の話で後々述べようと思う。

古着屋で雇ってもらえ、給与が支給されるまで、3ヶ月ほどあった。
わたしは、とりあえず生きなくてはならないので、
手当たり次第に、夜のバイト、
キャバクラを、受けた。
どう見ても誰が見ても、キャバ嬢 というものではない。
2~3つめに、やっと、受かったキャバクラでも、
客などつかず、呼ばれるまで、カウンターで待機していたが、
接客など、うまくいかなかったわたしは、
待機中の、カウンターにある
水槽の熱帯魚の、どんどん長くなる糞を、
ずっと見ながら、
「この糞が切れるまで、呼ばれませんように」などと、願をかけていた。
三ヶ月働き、給料を、二万円ちょこまかされ、
キャバクラを、辞めた。
そして、ようやく働けるようになった古着屋で
働き始めた20歳の頃、
古着屋の同僚であり、唯一、ウマが合った、女の子と、
バンドを始めることになった。
※この辺りのことも、後々記します。

話は変わり、そのバンド(Coral Cell)で、わたしは、
ギター コーラス を、担当、
ベース ボーカルの、古着屋の同僚の女の子が、
ある日のスタジオで、
「オーネ、スタジオ代もかかるから、もっと働かな、」
と、言い、
わたしは、
「うーん、でも、、キャバクラも全然出来てなかったし、、」
と、困るわたしを、
彼女は、夜のバイト先に連れて行って紹介してくれることになった。

彼女は、女王様 でもあったのだ。

彼女の昔のバイト先は、SM BAR (フェティッシュBARかな?)
だった。

赤と黒の店内には、
各種の鞭 や、檻、拘束具や、麻縄、ロウソク、天井には
吊るせる 道具まであった。
わたしは、なんとなく、彼女の紹介で、
働かせてもらえるようになった。
しかし、いかんせん
わたしは、SMの趣味もなければ、演技もできない。
縛りも、鞭も、ロウソクさえ、出来ない。
お酒もほとんど全く呑めないし、
喋りも、ろくに出来ない。
それでも、SM BAR  の、オーナー や、スタッフの方々は、
そんなわたしを、受け入れてくれ、時には、かばってくれるように、
プレイを懇願してくるお客さんに、
「この娘、絵描きなんですよ~」
と、店内のパソコンで、わたしの画家のホームページ
を、お客さんに、開いて見せてくださったりした。
わたしは、役に立たないし、変態でもない。
脳貧血の発作を、起こして、ボンテージ姿のまま、
店内のソファーに、横にならせて頂いたりしたし、
プレイも、出来ないので、
率先して、グラスを洗うが、
容量が悪すぎた。
SMの話にもついていけてないし、
とても良くしてくださるスタッフの女王様ばかりに助けられ、
しかし、中には、
「やる気あんのかね?」と、言うスタッフさんも、当たり前だが、居た。
わたし自身、申し訳なく、数ヶ月働き、
プレイも出来ない、変態でもない、単なる邪魔でしかなかろう?
と、自分でも、思え、
経営もなかなか上々とは言えない状況も、察することは、
容易だったため、
ある日の閉店後、オーナーに、
「あの、、わたし、女王様でも、M女でもないですし、
変態でもないですし、プレイも、出来ませんし、きっと、これからも出来るようにならないと思います、、
なので、気を使わないでください、わたし、必要無いと思います、なので、、クビにしてくださいね、」
と、オーナー に、打ち明けたところ、
オーナーは、笑いながら、
「何を仰いますやら! あなたは、居るだけで変態 の、逸材なんですよ⁉︎ そんなこと思ってたん?」
と、返事を、され、
わたしは、褒められているのか、何なのかよくわからないまま、
このご時世、ここまで無能なわたしを、
まともに雇ってもらえるところなど無かったので、
とりあえず、雇ってもらえることは、
有難いこと、この上ならず、
「あ、ありがとうございます、わたしは、ここに居ても良いのですか、、頑張ります」
と、言って、なるべくグラスを洗うことや、
プレイ中に、女王様のお手伝いを出来るように、頑張ったが、
いかんせん、やはりポンコツだった。
でも、其処に来るお客さん方は、皆、変態だった。
あらゆる変態だった。
全裸のおっさんが、カウンターに、当たり前に座っていたし、
キャバクラでは、ボーイさんに、
「ほら、よく見たら可愛いでしょ~?」
と、
場違いばかりをお客さんに指摘され、良くて笑い者、だいたい罵倒をうけ、
それでもクビにはならず、同僚が、ある日突然クビになったときも、
ボーイさんに
「次はわたしですよね?」などと訊いても、
「だーいじょーぶ!(源氏名)ちゃんは、可愛いから!」
などと、言われつつ、時給の発生しない、
ボーイさんのやる雑用や、便所掃除、
煙草を、買ってくる おつかいなどをさせられ、
場違いなのは、誰の目にもそうだった。
その点、SM BAR は、違った。
場違いなのは、どこに居ても、そうだが、
変態さんしか居ない、其処は、
わたしが、場違いであるように、
お客さんは皆、日常では、場違いを味わっていて、
オアシスのように此処で、せめてもの、本音を露わにしている、
だから、わたしは、其処には居ることが出来た、
世間での息苦しさ、偏っているとされてしまう、あらゆる価値観、
其処では、全く異なったものであっても、
社会からは、変態とされてしまう故に、個個の其 を、
尊重し、単なる違い を、いちいち殺さない世界だった。
だから、わたしも、何処かで繋がりを感じることもあった。
いつの間にか、わたしには、
「見る係り」という、無かった係り が、与えられた。
それは、見られて興奮されるお客様を、
じっと見る係り。
内心、目だけ其処に置き、頭の中では、全く別の、「今日、何食べよう」などと考え、心此処にあらず
という仕事が、わたしの受け持てる際限の係りとなった。
しかし、1年半程働いたが、やはり、経営難のため、お店は、変わり、それと共にわたしも、辞め、
今となっては、そのお店も無い。

それから2~3年後、わたしは、また、夜の仕事を探していた。
平間の仕事と、内職の、古着にペイントだけでは、大人一人(ヒモ)を養いながら
では、お金が足り無かった。
それに、どこも経営難だった。
10箇所程、スナック等を、受けたが、やはり わたしには、夜の女が似合わないのだろうし、やはり、場違いなのは、きっと、誰の目にもそうだった。
お酒も吞めなければ、喋りも立たない。
夜の仕事は、全落ち。
わたしは、最後に落ちた、スナックで、
「タクシー代」として渡された3,000円で、
以前のSM BAR の、繋がりがあった、
別の SM BAR に、呑めないくせにヤケ酒を呑みに行き、
何度か面識のあったママさんに、
「わたし、今日も、スナック落ちたんです。全部落ちるんですよ、。」
と、話し、ママさんは、
「、、、落ちる やろなぁ、、」
と、言うので、わたしは、酔っ払ってヤケになりながら、
「だって、聞いてくださいよ、、
全然美人じゃない人とか、デブでぶっさいくなダッサい女の人とか、
働いてるんですよ?
なんで、わたしは、駄目なんですか?
わたし、そんなにブサイクですか?其処までではないと思うんです、
わたし、ちゃんと言われたようにします、
どこをどのようにしたら良いと思いますか?
髪型ですか?メイクですか?服装ですか?
教えてください、わたし、ちゃんとそうします、、」
と、嘆くわたしに、ママさんは、
「ウチで働く?」
と、言ってくださり、
わたしは、また、SM BAR で、
ボンテージ風の衣装で、働かせて頂けることになった。

その、二軒目のSM BAR は、
プレイ よりも、半分、スナック といった感じで、
喋り のことを、
二人の ママさん に、色々と教わった。
やっぱりわたしは
「一杯いただきます」
すらも、まともに言えない、ど下手くそで、ポンコツだったが、
他のスタッフさんにも、助けられ、
ママさん からも、たくさんの配慮と、愛情を頂いた。

脳貧血の発作に理解を示してくださったのも、
今思えば、SM BAR の、ママさん、オーナーさん、スタッフさん だけだった。

二軒目のSM BAR では、わたしは、喋ることをたくさん覚えた。
お酒を呑むこと以外は、とっても大好きな、職場だった。

お客様との会話での、話しては良くないこと、
・宗教、思想の話
・政治の話
・仕事、プライベート の話
・他者の価値観を罵倒しない話

わたしは、決して上手な夜の女にはなれなかったが、
社会で虐げられてしまう、
誰も傷つけない、優しい世界 を、
深く学んだ。
ママさん達、スタッフさん達に、絵の依頼も頂いた。
いつも、わたしは、絵描きであることを、
それしかできないことを、活かしてくださった。
わたしに、仕事を、くださった。

わたしには、何処よりも清く、優しい、愛のある、大好きな職場だった。

土足で他者の庭を踏み荒らさない、
土足であることも、
他者の大切な、庭であることも、
多くの人間には、自覚は無いのだろう、
いろんなことがあるから ということを、
愛で持って、接すること
その多くを、
わたしは、この2軒の SM BAR で、学んだ。

あまり、活かせる場所は、社会にはないけれど、
活かすのではなくて、
生き方そのものに根を張って、大切なこと、
見失わないように、生きていたいと思います。

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aune
2016.06.18