「創造の写真劇」- 日本語版 82 ルター,ツウィングリ, メランヒトン | 日本におけるJWの歴史を考察するサイト

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ルター,ツウィングリ, メランヒトン

 

 

 マルティン・ルターが真理を、すなわち全体の真理とその真理のみを理解していたと言えるほど、ほかの者たちより先に抜け出していたと信じる者は、今日では誰もいないだろう。ルーテル派が2枚の「95か条の論題」を2つに切り裂いたとしても、2つに分けた残りと引き続き同じ数を保ちたいと願っている。しかし、ルターの時代の頃、文明は一歩先に踏み出したことには皆同意するであろう。カトリックは、今日より良いカトリックになっているし、プロテスタントも同様に良くなっているのである。

 

 ルター牧師は、聖職者をめざすドイツの若者たちを教えるカトリックの大学の長であった。彼は聖書のことを聞いてはいたが、13世紀以前の他の者たちと同様に、教会の様々な「使徒会議」の決定を信じていた。交付された様々な教義は聖書的な根拠があると信じていたのである。

 

 しかしある日、彼はたまたま新約聖書のラテン語訳を見た。彼は好奇心のままにそれを読んでみたが、その簡潔さに驚いた。彼は法王に手紙を書き、会議を招集して、聖書から少しずつ外れてきたところがないか確かめるように提案した。しかし、法王はその提案を快く受け入れなかった。ルターは異端であるとされ、聖職を解かれ破門された。この仕打ちは、もともとの聖書の教えと方法が、彼の時代の教えと異なっているということをさらに確信させただけであった。彼は、すでにドイツ全土に小冊子を広めていたが、それは比較的少数の人たちの間であった。それで彼は、どの言語の人でも読むことが出来るようにと、書き始めた。多くの苦難を経験しながら、次第に聖書は知れらていった。

 

 こうした、神聖で心の正直な改革者たちは、部分的に聖書を理解しているに過ぎなかった。迷信や偏見の多くの煙が、引き続き心の目を曇らせていた。その煙を我々も取り除くことは出来ていない。それでも、聖書の研究が復興し、すべての宗派の人たちに影響を与えていることについて、神に感謝する。昔には、ほんの少しの人しか読むことが出来なかったことを覚えていたいと思う。聖書は非常に高価だった。祭司の使徒職と彼らの教義に対する誤った信頼のために、それは無価値なものと考えられていたのである。

 

 

ルターは「95か条の論題」を教会に打ち付けた

 

 

法王の書簡を火につけるルター

 

 

初期の長老派たち、契約締結者

 

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2003年9月15日号の「ものみの塔」の記事、「マルティン・ルター ― その人物像と遺産」にはこのような一節があります。

 

ルターの遺産


ルター,カルバン,ツウィングリといった人たちが弾みをつけた宗教改革によって,プロテスタント主義という,宗教への新たな取り組み方が誕生しました。ルターがプロテスタント主義に残した主な遺産は,ルターの教えの中心,つまり信仰による義認という考えでした。ドイツ諸侯の国々はそれぞれ,プロテスタントの信条かカトリックの信条のいずれかを受け入れました。プロテスタント主義は,スカンディナビア,スイス,イングランド,オランダに広がり,大衆の支持を得ました。今日,その信者は数億人を数えます。


ルターの信条すべてを受け入れないにしても,ルターを高く評価する人は少なくありません。アイスレーベン,エルフルト,ウィッテンベルク,ワルトブルクを含む旧ドイツ民主共和国は,1983年にルター生誕500年を祝いました。この社会主義国家は,ルターをドイツの歴史と文化における際立った人物と評しました。さらに,1980年代にカトリックの一神学者は,ルターが与えた衝撃を要約して,「ルター以後,彼に匹敵する人物は出ていない」と述べました。アーラント教授は,こう書いています。「マルティン・ルターと宗教改革について,毎年,少なくとも500の新しい出版物が,しかも世界のほとんどの主要言語において刊行されている」。


マルティン・ルターは,鋭い知性,並外れた記憶力,言葉を駆使する能力,旺盛な創作意欲を持っていました。同時に,短気で横柄なところがあり,自分が偽善とみなしたものには激しく反応しました。1546年2月,アイスレーベンで臨終の床にあったルターに友人たちが,他の人に教えた信条を今でも曲げていないかと尋ねました。ルターは,「もちろんだ」と答えました。ルターは亡くなりましたが,今でも多くの人がその信条を固守しています。

 

ツウィングリという名前は私たちにはあまりなじみがありませんが、スイスでは非常に有名な人物です。「探求」の本13章319ページにはこのように書かれています。

 

ルターがドイツで教皇使節団や行政当局者との戦いに忙殺されていたころ,スイスのチューリヒではカトリックの司祭ウルリヒ・ツウィングリ(1484-1531年)が宗教改革運動を開始しました。その地域ではドイツ語が使われていたので,人々はすでに北部からの宗教改革の気運の影響を受けていました。1519年ごろ,ツウィングリはカトリック教会の免罪符,聖母マリア崇敬,聖職者の独身制,その他の教理を戒めるようになりました。ツウィングリはルターとは別個の独立した立場を主張していましたが,多くの分野でルターと意見の一致を見,ルターの著わした冊子を国中で頒布しました。しかし,より保守的なルターとは対照的に,ツウィングリは像,十字架像,僧服,礼拝音楽などのローマ教会のこん跡をすべて一掃することを唱道しました。
 

メランヒトンについてはあまり言及している箇所がありませんが、ウィキペディアにはこのように書かれています。

 

フィリップ・メランヒトンは、ドイツの人文主義者、キリスト教神学者。ルター派。ルターの宗教改革において、ルターの思想の体系化に尽力した。プロテスタント正統の基礎を築いたという面でカルヴァンと並び称される。

 

いずれの人物もプロテスタントの基礎を築いた重要な人物と見なされているようです。