● アカデミー賞平手打ち事件から見える事 公平さを失った評価が招く事編
今回はSNSで見かけた意見を見ていた時に気づいた興味深い現象について書いていきたいと思います。
その興味深い現象とは「公平さを失った評価は間違った思想を生み出すのを助長する」という事です。
具体的に言うと「映画芸術アカデミーが身体的な暴力に対してのみの批判を行った結果暴力容認論が増えた」というお話です。
ちょっと話が飛びすぎたので流れを説明しましょう。
概要の記事にも書きましたが、この事件に関して日本ではウィル・スミス氏に対して「妻を公衆の面前で侮辱した相手への対抗」という意味での称賛の評価が少なからずあります。
公衆の面前での侮辱によって受ける心の傷が、平手打ちに相当するのかという事に関しては、前回の記事に書いたように文化ごとの違いがあるので一概に語れませんが、まずここで一つ暴力を否定する立場としては相容れない思想が出てきたことになります。
こういった意見自体は仮に喧嘩両成敗的な評価を下したところで一定数は出てくるものかなと思う所でもありますが、興味深いと思ったのは別の意見です。
それは「この事件に関してウィル・スミス氏側の感情的な同情やロック氏に言及すること自体が”暴力の容認”にあたる」という言論です。
これも極論ではありますが「なるほどな」という思いも沸き上がりました。
私の感覚としては概要の記事にも書いたように、「暴力が悪いのは分かるが、何故侮辱はスルーなのか」という感情ですが、これは考え方によっては暴力の容認に繋がっているという事だそうです。
確かに暴力の捉え方編の記事に書いたような身体的暴力>精神的暴力という価値観からすれば、もともと評価の低い精神的暴力に身体的暴力を合わせるという事は相対的に身体的暴力の重要度を下げることになっていると言えるわけですね。
しかし、私のような「暴力も侮辱もそれぞれ裁かれるべき」という感覚の人は多いと思いますし、中には「暴力に関しての批判は既に出ているから侮辱に言及している」という人も居るはずです。
ここで、仮に映画芸術アカデミーが侮辱と暴力をともに問題視し、個別に処分を下していたのなら、少なくとも私はこんなに長ったらしい記事を書くようなことは無かったでしょう。
私の意見が暴力容認に当たるというのなら、それは映画芸術アカデミーの身体的暴力しか言及しない姿勢によって生まれたのです。
こう考えると暴力の否定に偏った評価は結果として「暴力を容認する思想」を生み出すことにつながったと言えます。
先に述べたウィル・スミス氏に対しての称賛の意見も判官贔屓的に「味方が居ないから評価の声を上げる」というパターンも見受けられることを考えると、暴力にも侮辱にも正当に評価を下していれば極端な暴力礼賛に近い思想も減ったはずです。
実際問題、アメリカ国内においては文化として暴力が絶対悪である共通認識がある程度強固であるのでこういった問題は起こらなかったもの、共通認識が無い日本においては偏った暴力排除思想によって暴力容認思想が生まれたと言えるでしょう。
これは前回の記事にも少し書いたBLM(黒人の命を尊重する)という思想への対抗としてALM(全ての命を尊重する)という思想が生まれたことに近いと言えるでしょう。
難しい問題ではありますが、完全な正義を求めれば求めるほど、より問題のある思想が生まれかねないという事です。
清濁併せ呑む思想が大事かもしれません。