● 作品への愛とは何か
今回の記事は話題の大怪獣のあとしまつをテーマに「寛容さとは何か」という話をします。
世の中には自分の好きな物事であればあるほどこだわりが生まれ、視野狭窄に陥る事がよくあります。
しかも恐ろしいのは、視野狭窄に陥っている事に自分では気付きにくいと共に、視野の外にある物を不用意に傷つけがちになるという事です。
この記事を読むことでそういった視野狭窄を起こさなくなるヒントになればと思います。
今回何故大怪獣のあとしまつをテーマに取り上げたかというと、巻き起こる酷評の中に「この監督の中に怪獣映画への愛は無かった」というような言葉が結構見られたからです。
ただ、私自身が見た感想としては、そういった風には見えなかったのです。
むしろ、結構細かくデティールにこだわっている印象です。
一番雰囲気を感じたのは実はパンフレットでした。
印象としては「昭和っぽい」
正確には「昭和の映画のパンフレット」ではなく、「昭和の怪獣図鑑とかファンブック風」でしょうか 。
私自身は平成生まれなので、昭和を知っているかと言われるとそういう訳では無いのですが、逆に言うと平成生まれでも感じる雰囲気を持っていました。
私はハリウッド版のゴジラとかも劇場に行けばパンフレットを買うのですが、そこで見るものとは確かに違ったのです。
考えてみると平成版のゴジラのパンフレットとも雰囲気は違いましたね。
私が「昭和っぽい」という風に思った要素の中にはいわゆる昔の怪獣図鑑の「これが大怪獣○○の秘密だ!」と怪獣の特殊な器官を紹介する図のような、今の人にはちょっとチープに見えてしまうかもしれない所もあります。
ひょっとしたらこのチープに見える雰囲気が最近の怪獣映画を求める人の気に障ったのかなという風にも思えます。
確かに最近の怪獣映画はなんというかどんどん洗練されたものになっていっていると思います。
迫力のある怪獣が暴れるシーンだったり、人々が立ち向かっても抗いようのない絶望や恐怖だったり、そういう方向への洗練です。
もちろん昭和のゴジラも、特に第一作等については、私は残念ながら見る機会が無かったものの、「途中で出てくるゴジラを前に死を覚悟する家族の描写は、戦争体験がまだ身近にあるからこそ重々しい」というような評価を見かけ壮絶なものだったのだと思っています。
これは怪獣映画に限らず他の特撮でも似たことは起きているのですが、全部が全部シリアスなものではなく、明らかにポップ路線に舵を切った作品というものはあります。
怪獣という恐ろしいものをポップ路線に持ち込むならばどこかコミカルな要素も出てきます。
私が感じる昭和の雰囲気は恐怖とコミカルさが少しちぐはぐに混じり合うそのポップ路線から感じるものなのかもしれません。
では、最初のゴジラや最近の洗練されていく怪獣映画と、ちょっとチープさも感じるポップ路線の怪獣映画、どちらにおいても好きだと思ったなら優劣はつかないと思うのです。
もちろん、個人の感性として合う合わないはあります。
ポップ路線が合わない人シリアス路線が合わない人どちらも居ますし、合わないものに個人レベルで価値を見出せないということはあるでしょう。
しかし、それは感性が合わなかっただけで、愛のあるなしの証明にはならないのです。
私はパンフレットのつくりや、作中のネタの挟み方にしても、人を選ぶだろうという事は思いましたが、愛が無いとは思いませんでした。
無理に合わないものを理解しようとしなくてもいいです、しかし「自分の知らない愛の形がある」と考えれば多少は受け入れやすくなるはずです。
不要で的外れな怒りを起こさないためにも寛容な心を持ちましょう。