● 感情と一般論その2
前回の記事ではSNSで起こりやすい類の炎上の構造の一つとして、実際にあった作品への批評と間違いの指摘が混同した「感情を一般論化して説明しようとする」という現象を、実例を上げて説明していました。
「この作品は嫌いだ」だと一人の感想「この作品は間違っているから嫌いだ」だとその間違いに同意した人もなんとなくその作品がダメに見えてくる…気がするのです。
この「気がする」というのは意味合い的にはふんわりと印象がつくという事を指します。
この曖昧な感じが厄介なんですよね。
何かディベートのようなものをするような心構えで話をするのであれば、「この作品は間違っているから嫌いだ」と言った時に本当にその描写は間違っているのかということも勿論ですが、「その描写と嫌いだという感情に因果関係はあるのか」という様に事象を分けて話が進んでいくでしょう。
しかし、雑談レベルの会話だとそこまで分析的に思考を巡らせる事は無いでしょう。
そうすると、「正しくないから嫌いだ」と言われた時、個人レベルの感想でしかない負の感情に納得しやすい理屈が乗ったように思えて説得力を感じてしまうんですよね。
さらに厄介なのが、このような感情と正当性を結びつけようとする人も、悪意を持ってそういう話し方をしている訳ではない場合が多いという所です。
そもそも何かが嫌いだとか不快な感情を感じているという事はある種ストレスであり、不安を感じている状態とも言い換えられます。
不安を感じているという事は安心したい、安心したいという事は誰かに共感してもらいたい、共感を広く得るためには自分の感情を一般的に正しいものに加工する必要がある、ということです。
しかし、創作物の鑑賞で感じるような不快感はそもそも見るのをやめれば良いだけの話ですし、間違った知識が広まるのを防ぎたいという様な大義名分も、本当に解決したいのであれば「間違っている」事を喧伝するよりも正しい知識をいかにうまく広めるかに注力した方が建設的なんですよね。
「この作品のここが間違っている。だから駄作だ」というとその作品を好きな人からは総スカンを食らいますが、「有名なこのシーン、実は現実ではこうなるんです」位にしておけばそういった反発はグッと減るでしょう。
正しい知識を啓蒙したい時ほど感情を逆なでしてはいけないのです。
炎上するタイプの発言をする人は、「間違いが広まるのを防ぎたい」のか「感情に共感してもらいたい」のか、自分自身で分かっていない状態なのだと思います。
ただ、こういった事になってしまうのもある程度仕方ない事なのかなとも思います。
日頃から自分の感情をコントロールしたり、物事を細部まで分析しようというスタンスで生きるのは大変な事です。
とりあえずは何かそういう苛立ちを感じた時に、変に頭を働かせて理屈を混ぜないように心がけましょう。
もし、理由を付けたい衝動が抑えられない場合は徹底的に理屈にして感情が残らないようにしてください。
この辺りは過去の記事が参考になるのでご一読ください。
感情は感情、理屈は理屈、感情的に受け入れられないものは「感情的に受け入れられない」と言いましょう。
