前回の記事の引きは嫌われがちなイエスマンと、人から好かれる肯定から入る人の違いは何かという問いでした。

 

 

 その違いは相手を理解しようとする姿勢があるかどうかという事です。 

 

 イエスマンの一般的イメージは何も考えずに言われたことにイエスと返すだけという物です。 

 

 ただそれでは相手からすると、「自分である必要が無い」という風に思ってしまうんですよね。 

 

 理想としては相手の言葉に対して意図をきっちりと汲み取り、言葉を受け取った事を示した上で自分の意見を述べる事ですが、そこまでとは言わずとも相手の意志を受け取る姿勢を伝えつつ、自分の考えで肯定の意を示す事が出来れば、その瞬間に多少の認識のズレがあっても後のやり取りで解消できるでしょう。 

 

 ちょっと難しく書きましたが、単純に言いかえると 

 

 自分で考えた結果イエスと言う 

 

 事が大事なのです。 

 

 この考え方を応用して処世術として使えるマインドセットは 

 

 自分がイエスと思った事だけ積極的にイエスと言うイエスマンです。 

 

 逆に言うと自分がイエスと思わない事は絶対にイエスと言わない事でもあります。 

 

 例えばあの血で血を洗う恐ろしい対立である 

 

 きのこたけのこ戦争で考えてみましょう。 

 

 仮に自分がたけのこ派、相手がきのこ派だったとして 

 

 「きのこの山の方が素晴らしいお菓子だ」 

 

 と主張された時に、「いやたけのこの里の方が…」と否定したり、「そうだねきのこの山の方が素晴らしい」と自分の考えを曲げるのではなく、「きのこの山のクラッカー生地の食感は素晴らしいよね」と言う様に対立構造の優劣ではなく、相手の主張の美点に対してイエスと返すのです。 

 

 クラッカー生地はあくまで例ですが、優劣をつけようとする視点ではなく、単独で向き合えば、たけのこ派でも自分を曲げる事無くイエスと言える美点は出てくるはずです。 

 

 認めるべきところは認めるという姿勢は上手くすれば相手からも同じ態度を引き出す事が出来て、その状態の方が議論は良い方向に進めやすいです。 

 

 そして、このように、相手の主張の良い所を見つけ出して、それを積極的にアウトプットする癖をつけておくと段々と自然に相手の美点を見つけられるようになり、コミュニケーションがスムーズになっていきます。 

 

 そして、相手の美点を見つける癖をつけてなお、どうしても納得できない事があった時は 

 

 沈黙してしまって良いです。 

 

 良いと思った事を積極的に肯定してくれるという印象が周囲にちゃんとついていれば、イエスが返ってこなかっただけで相当な事だなと相手が理解してくれますし、そういう態度を示す事で、肯定的な言葉の重みも大きくなります。 

 

 意味あるイエスだけ出すイエスマンであれば自分を曲げる事無く生きていきやすくなるでしょう。 

 

 まずは自然と良いと思えるところを探す癖を付けましょう。