近年、オタクという言葉というか概念というか存在が世間一般に認知、浸透しつつありますね。
かつては陰気なイメージがあった(?)とされるこの言葉が市民権を得てきた、というのは良い事だなと思います。
好きな事に打ち込んでいるだけで悪い方向にレッテルを貼られるのは悲しい事ですからね。
しかし、この「オタク」という言葉の浸透と共にちょっとした認識の問題も生まれつつあるかなという事も最近思いました。
それは「好き」=「知識」という風に別々の概念が混同されやすくなっているという事です。
なんとなく「○○好きならこれは知っていて当然」という言論が多くなってきている気がしませんか?
この言論の問題点としては、好きという基本的に尺度の無い感情を、知識という比較的測りやすい指標で評価出来ると誤認してしまう所です。
これで本当に知識と好きな感情の大きさに相関関係があるのならまだ良いんですが、結構そうでもない事は多いので、色々分けて考えるべき事柄だという認識は大事です。
こういった誤認が生まれる要因に関して私は大きく2つあると考えています。
その一つとしては好きという感情の中には確かに「もっと知りたい」という欲求は含まれるという事です。
例えば青春時代の片思い等を思い返してみていただきたいですが、好きな子が出来たらその子の事を知りたくなると言いますか、より知りたいと思う人を好きになったりとかしませんでしたか?
しかし、例えば特に問題が無い前提にはなりますが家族などで考えると、好きの種類が違う気がしませんか?
個人の例なので参考にはならないかもしれませんが、私は家族の事が好きだと自信を持って言えますが、別に深く理解したいかと言われるとそうでもありません。
深く理解しているから欲求が湧かないのかと言われればそうではなく、「知らないけどそれで構わない」という感情なんですよね。
要するに「好き」という感情にも様々な種類があり、それは一概に全て知識欲に結びつくわけではないということですね。
ここで「知りたいという欲求」と結びつく「好き」の概念を切り出すという考え方もあるかもしれませんが、正直それも現実的ではありません。
この辺りは先程例に挙げた、片思いから付き合って結婚して家族になるみたいな過程を考えれば想像しやすいのではないでしょうか?
「好きだから知りたい」と「知らなくても好き」の変化はグラデーションになったり、関係性の変化が無くとも切り替わったりする様なものなので分けられないのです。
そして、好きと知識が誤認される要因の2つ目は「情報を集めるのが容易になった」事だと考えています。
インターネットの発展により、知りたいと思う情報を集めるハードルは劇的に下がったと言えます。
それこそ、最近私がよく記事にしているウマ娘も、元ネタとなる競走馬の戦績やエピソードをネットでかなり簡単に集める事が出来ます。
それ自体はとても良い事で、そこから興味を持って調べて知識がつくことで、良い物なのに人の目に触れづらく衰退していくものに日の目が当たったりすることもあります。
しかし、この「調べれば簡単に情報が出てくる」という事が、知識を集めたいタイプの好きと知識が無くても好きの垣根を崩したとも言えるのではないかと私は思うのです。
例えば昔は知識を集めるならば、本を手に入れたりそのジャンルに関する講演等に足を運ぶ等、かなり大きな労力を求められた訳です。
そういった事にお金を出したり、時間を使うというのは出来る人が限られており、そういった行動が出来ない人とはある意味であって当たり前の壁があり、逆に好きの優劣の様な指標にはなり得なかったのです。
微妙にニュアンスが違うかもしれいないイメージですが、駄菓子屋で少ないお小遣いから工面してお菓子を買う子供と財力に物を言わせて大人買いする大人を「どっちが駄菓子好きか」と聞かれても分からない気がしませんか?
それが現在は知識を集める労力が減った事により、好きにリソースを割ける人割けない人の差が縮まってしまった為に知識と好きの混同が起きやすくなったのかなと思います。
なんとなくこの辺りを感じたのはこの動画からでしたね。
芸能界一のとんねるずファンを自認する古坂大魔王さんが、とんねるずの知識問題をクリア出来ないのが一種のネタとして機能はしているものの、リアクションを見るにリスペクトは間違いなくあるし古坂大魔王さんご本人が一番悔しいだろうなとは思う訳です。
知識としては持っていなくても、少年時代からのファンとしての気持ちはきっとあるでしょう。
やはり、好きという感情はそう簡単に知識量という指標だけでは判断できないものなのです。
むしろ、よく分かっていないけど好きという感情も大切にしていきたいなと思う今日この頃なのでした。