さて、思いの外長くなってしまいましたが、メダル噛みつき事件に関して私が思う所の最後の最後、メダルは誰のものなのか?という事について書いていこうと思います。

 

 いや、シンプルに「メダルは勝ち取った選手の物である」というのが正しいのですが、今回の騒動で色々と個人だけの納得とは別の問題があったなと言うことを考えさせられたのです。

 

 皆さんにも考えてもらいたいのですが、皆さんはメダルの価値はどこにあると思いますか?

 

 実は私はこの事件を知った段階で即交換すべきという認識を持っていました。

 

 前回の記事に書いたような口内細菌の数等の情報は、記事を書くにあたり調べた所はあるものの、ぼんやりと基礎知識で莫大であることは理解していたので、金メダルに関して汚されたという認識が強かったためです。

 

 しかしこれはある種、物に対してしか視点が行っていない発想とも言えるわけですね。

 

 この事件に関する様々な言論の中に「メダルは表彰式でもらうことも価値に含まれる」 というものもあり、それを見た時にハッとしました。

 

 この発想は私には無かったのです。

 

 正直、個人的にはこの意見にピンと来ているかと言われると少し来ていない所はあります。

 

 メダルを表彰台で受け取ったという記憶は選手に残って居ますし、記録にも残っています。

 

 また、メダルは何か実用するものでも無いので、手に馴染むとか、それじゃないとだめだと言うほどの愛着が湧く感覚も全く理解できないわけでは無いものの、それほど重要視出来なかったのです。

 

 これが数年前のオリンピックのメダルなら換えが効かないのも理解できますが、事件当初はまだオリンピック開催期間中でしたし、すぐに交換できればまだ傷は浅いかなというのが個人レベルの感想でした。

 

 実際後藤選手も表彰台で貰うことに価値を見出していたそうです。

 

 しかし、世論の加熱に後押しされた形で交換という事になったのですが、これは言ってみればメダルの価値について本人以上に周りが騒いでしまったという事になります。

 

 確かにこれは行き過ぎな所もあったかもしれません。

 

 ただ、逆にこういった世論と本人の認識のギャップがあるということは、後になって出てくることが懸念される問題の確度も上がるということです。

 

 それは選手への敬意がない人へからの心無い言葉の投げかけと風評被害の広がりです。 

 

 まず、この齧られメダルを放置していた時に起こりえるのが「これは汚いメダルでしょ」という評価がついたまま残るという事です。

 

 そして、これは口に出さなくても事件を知る人にとっては必ず頭によぎってしまう物だと私は考えます。

 

 これが難しいもので、「表彰台で受け取ったという価値は無くなったが正規のメダル」と「表彰台でもらったが汚いメダル」のどちらの価値が低いのかは恐らく千差万別でしょう。

 

 あくまで私自身の考えでは、金メダルの栄誉は本来選手自身の物ですし、+要素が無くなってもプレーンというか、まっさらなメダルのほうが、汚いという−要素がついたメダルよりは良いのではないかと考えてしまいます。

 

 勿論これはそもそも噛まれないほうが良かったという大前提の元ではありますが…

 

 この評価はそれこそ本人の意志次第ではありますが、実は私が考える懸念は事件が風化した頃に起こる風評被害にあります。

 

 今現在でもオリンピックに興味がない人には起こり得る事なのですが、情報というものはまるまるきれいに全体に広がるものではなく、どうしても印象的な部分だけ拾われがちです。

 

 今回の事件も「河村たかし氏がオリンピックソフトボールの後藤選手の金メダルを齧る」という内容から「河村たかし氏がオリンピックソフトボール選手のメダルを齧る」もっとひどければ「オリンピック選手のメダルを汚いオヤジが噛んだらしい」くらいまで断片化されてしまうことがあるわけです。

 

 ここで何が起こるかと言えば、今後まずはソフトボール選手という情報は持っている人は、ソフトボール選手全体に対して「この人がメダル噛まれたんだっけ?」という疑問を持つようになり、もっとゆるいと日本のメダリスト全員に「この人のメダルは汚い?」という疑念を抱かれてしまうことになりますし、それは時間が経って事件の印象が風化するほどにひどくなります。

 

 であれば、せめて汚いメダルは排除されたという事実を作ることは一定の価値があるのでは無いかと私は思うのです。

 

 こう考えると、メダルは個人の所有物という概念を超えて他のメダリスト、世間からの評価の影響も受けてしまうんだなと深く考えさせられました。

 

 とはいえ、やはりこの一件で最も気を揉んだのはご本人や関係者だと思います。

 

 私はある種本人の意志を無視する世論形成に関わってしまったとも言えますが、それを理解し、もっと最適な方法がないか模索し続ける必要があるなと感じています。