さて、ここまで三回に渡って人の本質について語ってきました。

 

 今回の記事ではそれらを総合したお話をしようと思います。

 

 一連の記事の大テーマとして掲げた物として

 

 世の中には人の本質から目を背けて語る言論が多すぎる
 

 というものがありました。

 

 それが何かの尊厳や安全を守るための暴力の行使からであったり、自分の想像力の範疇でしか物事を認識出来ないという事実を受け止めていないということだったりするわけですね。

 

 そして、私が伝えたい最後の要素は

 

 人は自分に関わる事に対してしか真剣にならない

 

 ということです。

 

 言ってしまえば自己中心性ですね。

 

 もうこれは抗いようのない本質とも言えます。

 

 そもそも、この話は実は一連の記事の最初にも書かれていて、私はオリンピックに関して、興味が薄い為に賛成も反対も思想を持っていない状態でした。

 

 ところが、私が昔から好きだった芸人であり、パフォーミングアーティストである小林賢太郎氏に対して累が及ぶ段になって始めてオリンピックそのものは別として、オリンピックの運営者と世間のおかしな認識に関して疑問を持つようになったのです。

 

 そして、こういった記事を書いたわけですが、これも、捉えようによっては小林賢太郎氏への義憤ともとれるかもしれませんが、実際の所こういった論を飛ばすことが氏への援護になるかと言えば微妙な所ですし、一種の独り善がりな行動とも言えるわけです。

 

 実際、今回の件で人間の本質について深く考える機会があったと言えますが、その思考力、モチベーションも、人権問題等を遠く感じていた頃には発揮し得ないものでした。

 

 この辺りは「人は想像力の働く範囲でしか悲劇を認識出来ない」という前回、前々回の記事にも通じるところがあります。

 

 そして、この自己中心性がある意味大テーマである世の中には人の本質から目を背けて語る言論が多すぎる事の理由でもあります。

 

 的はずれな言論が世の中に溢れかえっているという事は、それだけだれも真剣に考えていないということです。

 

 言い方を変えると、事件から各々自分が真剣に考えたい要素だけ取り出して見ている事が視点の極端な差を生んでいるのです。

 

 例えば、単純にオリンピックを止めさせたい人からすれば、「ホロコースト大虐殺」というワードは任命責任等を種に運営を責めるネタに過ぎないですし、または、それが原因でかかってくる火の粉から逃れたい人からすれば、「あいつが悪い、自分はそれを指摘できるから悪くない」という保身の言しか出てこないのです。

 

 他にも単なる僻みだったり、事象の大きさにかこつけて関係ない自説を流布する事しか考えていない人も大いに居るでしょう。

 

 本当に人権問題について考えるならば、「認識が甘い人は必ず居て、そういった人たちにどう悲劇の扱い方を啓蒙するのか」ということだったり、それで傷ついた人のケアの方法等に思いをはせるべきなのです。

 

 こういった的はずれな言論を産まない為に必要なのは、まず自分が真剣に受け止めているかを考える事、そしてその真剣に受け止めた事が事件の本質かは別問題であるという認識を持つことです。

 

 その認識を持った上で、何故その問題を真剣に受け止めたのか、ということを自分の中でしっかりと分析することです。

 

 分析が進めば自分の気になることと本質のズレにも気付きやすくなりますし、感情に飲まれてモンスタークレーマーのような存在に成り下がることもなくなるでしょう。

 

 世の中にあふれる事件一つ一つに思いをはせることは不可能ですが、目についたものに関しては、この様に正しく向き合うようにしましょう。