日本の根性教育は良くないです。

 

 冒頭から何を言っているんだという感じのスタートですが、今回はちょっと根性論について気づきのような物を得たのでそれについて書いていきたいと思います。

 

 まあ簡単に結論から言ってしまうと、根性は押し付けで発揮できるものではないという事になります。

 

 実はそもそもの話、根性という言葉は人が本来持っている性質という意味なのですが、現代においては殆どの場合物事をやり抜くたくましい精神のような物を指すようになっています。

 

 そして、このたくましい精神という意味での根性というものの非常に厄介なポイントは、傍から見て判別がつきにくい所にあります。

 

 ちょっとこれだけだと情報が少ないと思いますので例を挙げましょう。

 

 例えば、去年から空手をやっているわけですが、昔ながらの空手の稽古などは、傍から見れば根性論にまみれたようなものは結構あります。

 

 例えば私が所属している空手においては最も重視されているとも言える「立ち方」、これも今でこそ立ち方の稽古と並んで型や組手の稽古も行う様になっているものの、かつては最初の三年は本当に立ち方ばかりで他の稽古をさせてもらえなかったそうです。

 

 来る日も来る日もひたすら立ち方だけの稽古…こう聞くとそれは本当に根性が必要な気がしませんか?

 

 しかし、今私が空手を始めて、週一の稽古や自主稽古会、自主練を通してヒシヒシと感じているのは。

 

 本当に年単位で鍛錬を積まないといつまでも出来るようにならない

 

 という現実です。

 

 特に人の身体意識は使い込んで成長させるより他になく、頭で理解したつもりになっただけでは全く意味がありません。

 

 とにかく試行錯誤を重ね、色々な意識で動かして身体に正しい動きを認識させないといけないわけですね。

 

 特に根拠はありませんが肌感としては、回数は万単位で行わないと無意味だろうなと感じています。

 

 というわけでこの年単位、万単位の稽古を重ねたとして、それは傍から見れば根性があると思われるのでしょうが、当人の感覚としてはそうではないでしょう。

 

 現時点で私はまだ、正しいナイハンチ立ちを習得出来ているとは言えませんが、身につける為の自主練で数を重ねるのは苦では無いですし、興が乗ってくると上手く行っていない中での試行錯誤にも楽しさを見いだせています。

 

 しかし、これは私が自発的に楽しさを見いだせたということが大事であって、仮に楽しさも意味も見いだせない中で同じだけの回数をやれと強制されたらそれは苦でしか無いのです。

 

 これが冒頭に述べた判別に苦しむ事なのです。

 

 仮にナイハンチの稽古を1万回行うという現象が一致していても、やりたくて1万回やったのとやらされて1万回やったのでは効果に天と地ほどの差が出ます。

 

 傍から見て苦行のようなことでも、それを本人が楽しんでいたり、意味を見出せていれば良いのです。

 

 結局は現象ではなく、本人の認識次第なので一概に「これは根性が無いと乗り切れない」というようなものは存在しないのです。

 

 ただこれは逆も然りなんですよね…

 

 物凄い苦行を押し付けられたと思ったら、押し付けた側はその苦行に楽しさや意味を見出していたということもあり得るでしょう。

 

 いちばん大事なのは、何かに取り組む意志とモチベーションを本人が持っている事です。

 

 結局他人はどうやっても動かせないという認識を持ちましょう。

 

 そういった意味で根性論は捨てましょう。

 

 根性論で押し付けるくらいなら、皆が楽しめる取り組み方を創造しましょう。