ちょっと前回は話がだいぶオカルティックになっていたので、今回はちょっと科学について語りたいと思います。
ただ、科学の定義について語ろうと思って、一度調べてみたんですが、まあこれが難解で、しっかりと要約しようとするには時間が足りないなと思いましたので、上っ面をさらいつつ、疑似科学等に悪い引っ掛かり方をしない為の心構えにでもなればという内容になります。
結論から言うと、科学は恐らく一般で思われている以上に「信仰の対象」になりやすいので注意しようという事です。
前述の通り科学とは何か、科学的とはどういうことかきちんと論じようとするとそれは非常に複雑な話になります。
そこには様々な要因がありますが、例えば科学と一口に言っても様々な分野があり、それぞれが様々な方法論、手法、記述法を発展させてきたという歴史があります。
何か一つの原理原則を広い分野に応用したのではなく、それぞれがそれぞれの状況に則した最適化を行なった結果、抽象化が非常に難しいという事です。
物凄くざっくりとしたイメージとしては、日本の交流電気の周波数が東西で50Hzと60Hzに分かれているという様な「規格の違い」に似ていると思ってもらえれば、この記事の中の意図としては問題ないです。
で、例えに出したついでにそのまま説明すると、日本の交流電気の規格が統一されないのは統一するには既にそれぞれで普及しすぎてしまったため、どちらかに合わせようとした時に必ず必要となる、どちらかを廃止するという事が出来ないという事が大きな要因なのですが、科学においても、統一の為に既に積み上げた実績を破棄したり、変換したりという事が非常に難しいという問題があって、スッキリと「これが科学的である」という定義のまとめが出来ないのです。
因みにここまでは非常に私の主観が入っているので、その通り受け取らなくても良いですが、これほど字数を割いて何を伝えたかったかというと、「科学とは何かを断じれる人は普通にはいない」という事です。
しかし、世の中には結構簡単に「これは科学的に証明されている」とか、「科学的にそんな事はあり得ない」というような言葉が溢れているんですよね。
例えばスマホ等は科学技術の結晶とも言えますが、その中の原理を一から全て説明できる人はまずいないでしょう。
現代社会において、人は科学技術によって生きていると言っても過言では無いですが、逆に身近にあり過ぎるが故に何を理解していて何を知らないのか把握できていないんですよね。
これが結構危険なポイントなんです。
実際の所それが分かっていない事が問題というよりは、そこに分かっていない部分があるという事を理解しているかという所が重要です。
疑似科学やそれを元にした陰謀論に引っ掛かる時は、日頃よく分かっていない部分の理をそれらしく説明されて、そこに納得が生まれて感化されてしまう例が多いのですが、そこで提示される前提が、一見それらしいが事実に則していないという事はあるのです。
ここで一つ例を挙げましょう。
ネット上のジョークでDHMOという化学物質が話題になった事がありました。
曰く、
- 水酸と呼ばれ、酸性雨の主成分である
- 温室効果を引き起こす
- 末期がん患者の悪性腫瘍から検出される
etc.
実はこれは水の事です。
嘘は言ってないにも関わらず、なぜか悪印象がつくというような現象が意外と簡単に起こり得るのです。
この様に一見理屈が通っているように見えてそうではない事というのはザラにあるという認識は持っておいた方が大事ですね。
こういった印象操作を上手く行なった疑似科学に引っ掛からない為の考え方の一つに反証可能性という概念を持つというものがあります。
これはカール・ポパーという人が提唱した科学の基本条件です。
「ある言明が観察や実験の結果によって否定あるいは反駁される可能性をもつこと」
ざっくり言うと何かの主張が別の根拠が出てきた時は潔く撤回できるかみたいな話です。
これその物が科学の基礎要件かというと、また様々議論が巻き起こってしまうのですが、大事なのは違うという根拠を示された時に、元々持っていた自説にしがみつかないというスタンスです。
バイアスをかけずに新しい情報を精査して自説に誤りがあるなら撤回または変更し、新しい情報に間違いがあったなら自然に自説に立ち戻りつつ、その反論が入りそうな余地に目を向けるという事です。
疑似科学や冒頭に述べた科学が「信仰の対象」になっているような人に引っかからない 為には相手が反証の可能性を考慮に入れているかを見ましょう。
それがリテラシーの第一歩です。