先日、また今まで書いていたオーケストラとは別の団体が始動しまして、初練習に参加してきました。
この団体で演奏する曲は全てチャイコフスキー作曲の曲です。
幻想序曲『ロメオとジュリエット』
イタリア奇想曲
交響曲第6番『悲愴』
歯ごたえ満載の曲です。
曲ごとに解説の記事を作るかは今後の気分次第ということで、今回それはさておき、別で気付きがあったのでそれについてお話致します。
今回の気付きはチャイコフスキーという作曲家の作風と、楽譜というものの変遷に基づくものです。
まず最初に今回の気付きのきっかけになったエピソードから説明しましょう。
今回は第一回の練習という事で、指揮の方が演奏時の注意点というか、この団体で作る音楽の方向性についての指示を出しました。
その中で一番大きいポイントとして、悲愴の譜面上にある、速度が緩んだり巻いたりする指示記号をほぼ全て取っ払ったというものがありました。
一見すると何をしているのかという風に思われるかもしれませんが、理由を聞いて私は「なるほどな」と思いました。
それは、一般の楽譜に書かれている速度変化の記号等の多くは後から付け足された物だという研究に基づいて、よりチャイコフスキーの意図に添えるようにというものでした。
どういうことか説明するために、まずはざっくりと音楽の歴史に関して触れてみましょう。
そもそも楽譜とは、作った音楽を再現するためにあるわけですが、昔と今だと、誰に対して書かれているか等、微妙に意義が変わってきているのです。
例えばクラシック音楽というジャンルでみた時にかなり古いジャンルと言えるバロック音楽の時代(バッハ、ヘンデル等)で言えば、楽譜を誰に向けて書いていたかと言えば、同じ音楽のルールの認識を共有している人たちに向けていたわけです。
例えば弟子だったり、自分が指揮を振ったりまたは指示を出しに行けるような近いしい関係性のオーケストラ等ですね。
こういう状況だと、作曲家の意図を伝えやすいため、楽譜に書く情報量が少ないわけです。
しかし、音楽が教会等とつながる神聖な存在から大衆の娯楽へと変遷していく過程で、ルールから逸脱した音楽も書かれるようになってきます。
実はベートーヴェンがそういった意味で革命児で、きちんとそれまでの音楽のルールを知った上で、あえてそこから逸脱して聴衆に衝撃を与える様な曲を作るようになりました。
ルールに沿っている前提なら、それを基準にしつつ後は奏者の裁量で自由に演奏しても、作曲家の意図から大きく逸れる事はありませんが、そういった逸脱を生かすなら前提知識のアップデートも必要なわけです。
曲ごとに付属のルールがついたり、また音楽が大衆化したことにより、全ての団体を作曲家が管理するのも難しくなったため、段々と楽譜には細かい指示が書かれるようになっていったのです。
最近の作曲家だと「嵐のように」という表現上の指示だったり、「ここは曲調的にゆっくりになりがちだから絶対に遅くならないように」等ものすごく細かい指示が書かれている場合もよくあります。
そういった新しい作曲家の楽譜と比べると、バロックや古典派等、比較的昔の作曲家の楽譜は指示も無くとても淡白に感じますが、ではそういった楽譜にはカタい曲が書いているのかというと決してそうではないんですね。
この楽譜の書き方の変遷を元にチャイコフスキーの作風にも目を向けてみましょう。
この記事冒頭で示した曲を聴いていただければ分かる通り、チャイコフスキーの曲って叙情的というか華麗というか、絢爛豪華というか、ロマンティックというか、なんかエモいんですよね。
そして、そのエモさを表現するとなると、奏者側の視点としてはシンプルな楽譜よりは、せめて遅い速い、さらに遅くなる速くなるとかの指示が欲しくなってくるのです。
おわかりいただけたでしょうか?
要するに指揮の方が速度関連の指示を取っ払ったのはその指示を後付によるものだと解釈したからと言うことです。
まあ楽譜って結構こういう事多いんですよね。
後から別の人が解釈してちょっと姿が変わるということはよくあります。
有名所だと、楽譜の中身とは少し違いますが、有名なベートーヴェンの「運命」は本人が付けたものではないとかそういったこともあるのです。
ただ、やはりそういった指示は、特にチャイコフスキーの曲等だとやりやすくはあるのです。
それを取り払うということは、より音楽に没入して良い表現を見つけなくてはいけないわけですね。
良い演奏会に出来るよう、精進していかねばという感想を持った練習でした。