さて、ここ最近やれオカルトだ科学だ、信じるだ疑うだ、バランスがどうだ等つらつら書いてきましたが、ちょっと概念的な話が多かったので、今回はちょっと具体的な話をしていきたいと思います。 

 

 世の中難しい物で、信じて突き進まないと成果を得られない事象もあれば、信じる心に付け込んでだましてくる不届き者も居るという現実もあります。 

 

 前者の具体例として挙げられるのが私の体験する所だと空手になります。 

 

 過去の記事にも書きましたが、空手に限らず伝統武術に伝わる稽古法や戦術の概念等は、現在のスポーツにおける研究とは当てはまらない物も多くあります。 

 

 この関係性は非常にややこしい物で、伝統武術等の古い稽古法が近代スポーツの理論に取って代わられないのにはそれなりに大きな理由があります。 

 

 大きなものとしては、武術やスポーツ等、身体を動かすという事に関しては、その理論の絶対的な数値による定量的な比較という物が困難であるという点が挙げられます。 

 

 例えばパンチを打つ時に身体の何処を意識すべきか等の感覚は実は人によって変わってしまいます。 

 

 腰の動きに意識を持って行った方が上手く行く人も居れば、肩や腕、手先等を意識した方が良い人も居ます。 

 

 

 実際の話、どこに注意を向けるのが正しいとか言う話は的がズレていて、厳密に言えば全身が精密に連動して動くのが正しいのです。 

 

 この精密に身体を連動して動かせる事が出来る人を達人と呼ぶわけですね。 

 

 そして、だいたいの場合は達人ごとに流派という物が生まれてくるわけですが、そもそもの話、人間の身体の構造という物は個体差を鑑みれば千差万別と言えますが、骨や筋肉のつき方や数が著しく違ったり、形そのものが劇的に違うという事は中々ありません。 

 

 にも関わらず、メソッドや口伝に大きな違いが生まれるのは、流派を体系づけた人の感覚と、流派が成立するまでに起きた戦いの具体例から導き出された応用的な技術に違いが生まれれいるからです。 

 

 後者に関しては用いる武器が違うと確かに運用法も変わりますし、さらに行ってしまえば近代の銃がある戦闘と銃が想定されていない戦闘でも大きく変化が起こるでしょう。

 

 ただ、前者に関しては、実は同じ様な理念なのに体系づけた人の感覚でクローズアップされる部分が違うため、見た目上は別物に見える、または口伝では全く逆の言い回しになるというような事が起きてしまうことがよくあるんですね。

 

 考え方を変えるとこの辺り、科学について書いた記事に書いた、科学がスパッとした定義に当てはめられないのと似たような理由なんです。

 

 きちんと実力者を輩出し続けている流派という限定は必要でしょうが、そういった再現性のある稽古法や鍛錬を、流派ごとに研究し、それぞれの文脈で説明しているのが群雄割拠する伝統武術の有り様なのです。

 

 これが、最初に述べた信じて突き進めなくては結果が得られない理由に繋がります。

 

 要するに、例えば私が今習っている空手には、そこならではの理論があります。

 

 それを身につける為にはその流派のやり方に則ってしっかりとその理論に乗っていかないといけないわけです。

 

 しかし、ここで私が他の武術を習いに行き、そこで習ったものを活かそうとする結果として訳のわからない物が出来上がってしまうんですね。

 

 例え同じ様な技術に見えても、流派が違えば要点の切り取り方が変わるからです。

 

 同じくらいのサイズのネジだなと思って違う規格の物を使ってしまうと、壊れるか外れるかどちらかになってしまうのと同じです。

 

 これはスポーツ科学等からみた場合においても同様で、それが最先端の情報に基づいた理論だとしても、そのフレームを通して伝統的な稽古を見てしまうと変な解釈を着けたり、違和感から正しい稽古法が出来なかったりしてしまって、結果パフォーマンスが落ちるのです。

 

 例えば空手と決めたなら、その世界の理論に基づいて他の要素に揺さぶられずに一心不乱に稽古しなくては行けないのです。

 

 このように、世の中には科学ではなくその分野の世界観にハマって見ないと真実にたどり着けないこともあるということを覚えておいてください。