今回から三回にかけては間違った情報伝達の起こりやすさと対策についてのお話をしようと思います。
今回の記事のきっかけになったのは、私が所属している空手の稽古法を巡るちょっとした事件でした。
前提を知っておかないと分かりにくい事件なので、今回と次回で武術全般に言える指導法の近代化と、実際に起こった事例をお伝えします。
さて、私の身近に起きた事件とはざっくり言うと伝統的な稽古法の前段階として普及しつつあった稽古法が師範に否定されたという情報が流れたのです。
この伝統的な稽古法というのは、恐らく私が所属している空手に限った話ではなく、歴史が長い武術はどこも持っている物でしょうが、なかなか扱いが難しい物でもあります。
どういう事かと言うと、現代人が求めがちな科学的なアプローチとの相性が良くないんですね。
伝統的な稽古法というのは要するに、経験則に基づいた有効性の積み重ねと言えますが、そういった稽古法が成立した頃には、現代ほどの科学が発展していなかったため、科学的な視点は無いと言って良いでしょう。
それでも良い稽古法というのは再現性が高いため残る訳ですが、現代人に分かり易く運動生理学や物理学などの視点から説明したとしても、それらは全て後付けの分析となります。
漢方薬みたいな物で、総合して一つの働きを為しているので、「この動きがこの筋肉に作用して鍛えられている」みたいな切り出し方は出来ないんですね。
ただ、これはこれで良い物なんです。
一つの稽古法に様々な要素が詰まっているからこそ、見る人や技術の修得の段階で得られる物が変わってくる奥深さを持つのです。
しかし、初心者にいきなり高度な技術の集合体である稽古法を教えても、情報量の多さについていけなくなる事も多いです。
こと空手に関して言えば、かつては一人の師に対して多人数が師事するという方式では無かったですし、さらに言えば立ち方だけに3年かける等みっっっちりと基礎を身に着けてから次の段階へ進むという形式でした。
師との距離が近いという事は間違いの修正もしやすいですし、長い時間をかけて基礎を身に着けるという事は、ある意味でその稽古法が確立するに至るまでの積み重ねを追体験しているのに近いとも言えます。
しかし、現代においてはこの様な指導の受け方、時間の掛け方は不可能に近いとも言えます。
私の所属している空手の会派は、極真や松濤館等と比べれば遥かに小規模であるものの、昔と同じ稽古法を行うには人が多く、広がり過ぎているのです。
では現代において、昔ながらの稽古法を完全には踏襲出来ない中どの様に技術を向上させるのか。
それは稽古の抽象化と新しい練習法の創出です。
昔ながらの稽古法をそのまま行うには情報量が多すぎますが、修得した人がその稽古を通して何を得たかに着目して、そこに特化した練習法を作り上げるのです。
そもそもで言えば、私が所属している空手の理論は非常に分かり易くまとめられていますが、その殆どが師範による理論づけだそうです。
正確に言えば、この稽古でこういう力が着くという事は体系づけられていたものの、現代科学で分かり易い様な説明は無かったため、師範が学んだ運動生理学等を用いて、積み重ねの無い人にも納得行きやすい形にしたのです。
そして、その師範から直接指導を受けた黒帯の方々をはじめとする稽古会長達も、各々が得た気付きに基づいて分かり易い練習法を考案するのです。
こうして古くからある稽古法に師範が意味を与え、その弟子たちが道のりを整備するという形になっているんですが、今回はそこで問題が起きたんですね。
要約すると、古文を現代語訳にするような一種の翻訳に近い作業が古流武術と現代の武術には必要で、そこが情報伝達のミスが起こりやすいポイントなのです。
…という訳でここまでで前提条件の説明となります(汗
次回は私の所属する空手で具体的に何が起こったかです!お楽しみに!