今回はオーケストラの練習を通して学んだことです。

 

 8/8の午後は私が所属するオーケストラの自主合奏でした。要するに指揮者を置かずに奏者だけで通したりポイントを埋めていく練習です。

 

 奏者だけで通るなら指揮者は必要なのか?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんがやはりそうも行かないんですよね。

 

 指揮者がいる理由は様々有りますが、例えば交通整理的な意味合いもあります。楽器を演奏しながらだとどうしても自分が弾きながら周りを聴いて合わせて行く事が難しくなります。

 

 配置によっては音を聴いてからでは間に合わない連携もあるのでそこを汲み取って指示を出すのです。岡目八目とは言いますが、その俯瞰的な立場、視点を元に時には100人近くもなる集団をまとめ上げるのです。

 

 とはいえこの奏者と指揮者の関係は完全な主と従かというとけしてそうではなく、奏者は一人一人が自分の感性と表現をお互いを邪魔しないように発信していく主体性が求められるのです。

 

 オーケストラ界隈のジョークで「演奏がうまくいったら指揮者のおかげ、上手く行かなかったら奏者のせい」というものがあります。

 

 アマチュアかプロかどちらの文化から生まれた事かは分かりませんが、奏者側の自戒を持って考えるなら、奏者だけでもまとまれる筈の部分を怠って指揮者の労力を無駄に割いてしまう事例が多いことを指しているのだと思います。

 

 そういった状況を打破する思惑もあり、今回の練習は自主合奏においても代理の指揮役をおかないでそれぞれのパートを聴きあって通す練習を行いました。

 

 はじめ曲はボロディン作曲「中央アジアの草原にて」

 

 比較的ゆったりした曲で演奏するのに必死になる部分はない曲です。

 

 しかしやはりアンサンブルというのは奥が深いです。メロディックな部分が来るとどうしても旋律を歌い上げるのに熱が上がるのです。

 

 最初にメロディに差し掛かったパートでぐっとテンポが落ちたのです。チェロやヴィオラといったリズムを出しているパートに緊張感が漂います。

 

 ある意味で譜面自体は難しくないため根本的な合奏力が試されることになったのでした。

 

 今回は結構極端にそういった現象が起きたのですが、例えば協奏曲等主役がいる曲は絶妙なさじ加減で主旋律が歌いやすいようにサポートする必要があります。

 

 後々に役立つスキルとしてこの感覚を分かりやすく味わえたのは1つのポイントだと思います。

 

 その他和音の移り変わりなど、ある意味普段の練習では流されがちな観点の確認も出来ました。

 

 次の練習はショスタコーヴィチ作曲「交響曲第5番」

 

 これはなかなか忙しくて大変な曲でした。まあ弾くのにも手一杯です。手前味噌ですがこんな曲をなんだかんだ指揮者無しでも通してしまえるのは結構凄いと思います。

 

 とはいえそれはあくまで通せるだけで音楽と呼べるものでは無いのです。今回の練習では「アンサンブルの受け渡しの時にお互いを意識できていない」と指摘されました。

 

 確かに自分が譜面通りに弾くことすら必死で誰から受け取るのか、誰に渡すのかを考える余裕は有りませんでした。

 

 大体ここらへんまで来てるから適当に出るといったことになってしまい細かなバトンミスがそこかしこで起きてしまっていたんですね。それは結局個人で譜面を弾いているだけで合奏では無いのです。

 

 これが指揮者の居る合奏なら本来は表現に指示が飛びますし、そうでなくお互いの合わせに時間を割くならそれこそが最初に挙げた時間の無駄なのです。

 

 最低限合奏で流れを崩さないために「自分が弾いていない間は直前まで他のパートを歌う」という条件をつけてその日は何回も通しました。

 

 今回の練習を通して学んだのは

 

 ・自発性をもって積極的に表現する

 ・当たり前の事を当たり前のように準備する

 

 ということでした。指揮者がいると指揮者に甘えてしまうということが身を持って学べました。しかし、それでは演奏たり得ないのです。

 

 演奏とは「アンテナを全開にして情報を受信してまた同じく自分の持てる技量を全て出して発信すること」です。演奏会では皆さんにそれをお見せ出来るように頑張ります。