今回は誰かから学ぶ時に得るものが多くなったり、安易な誹謗中傷に走らなくなる事に役立つ思考についてお伝えします。

 

 先週から私が通い始めた空手の道場での話です。指導にあたってくださる先生が雑談の中でポロリとこんな事を仰っていました。

 

 「うちも昔はヤラセだ宗教だ言われたからなあ」

 

 その道場の会派は極真空手や伝統派空手のように大きな勢力があるわけではありません。しかし、私が高校生位の頃?から始まった古武術ブームや格闘家の菊野克紀氏がその会派の技術を取り入れ総合格闘技等で活躍するといった後押しがあり、知名度が飛躍的に上がった時期が有りました。実際の所私もそのタイミングでその会派の事を知り、興味を深めていったという経緯が有ります。

 

 これはその会派に限った話ではないのですが、武道や武術といった古くからある身体操作はボクシングやキックボクシング、総合格闘といった近代的なトレーニングから導き出される身体操作と比較されがちです。そして、近代的なトレーニング、理論は一見して説得力があり分かりやすく感じるのに対して、武術的な身体操作は感覚的な指導も多く、人によってはすぐに理解できない事もまま有ります。

 

 こういった時に、一見不合理な説明のもとに大きな効果が見受けられると一定数安易な批判をする人が出てきます。「あれは嘘で大げさに見せている」と、ここで問題なのはそういった層ほどそれを否定する合理的な論理を持ち合わせていない事が多い点です。古武術が成立していた時代に現代の様な研究があった訳ではないので、経験則や感覚の積み重ねによる原理の説明や指導になるのは必然です。私が入った会派はむしろ現在の師範が現代のスポーツ理論にも当てはめられるように、口伝の鍛錬や指導を構築し直しているのでかなり理にかなっているのですがそれでも少数派だからなのか言いがかりのような批判をする人が多かった様です。

 

 実際の所近代スポーツでもトレーニング法や技術に新しい発見は常に有ります。ということは同じ様にまだ経験則等できちんと解明されきってない部分もあるのですが、安易な批判をする人達はどちらかが絶対的に正しいという一種の信仰を持ってそれ以外を叩くのです。

 

 信仰という言葉を挙げたのは意味が有ります。先生が仰っていた「宗教のようだ」と言う批判の元になるような層も安易な批判と根っこがほぼ同じ原因であることが多いからです。恐らくきちんと道場等で稽古を受ける人にはあまり起きないことですが、謎の信仰を持って支持する層は居ます。

 You Tubeの武術系のチャンネルのコメント欄を見ていて気付いた事なんですが、そこに一定数居るのが説明を理解していないのに礼賛している人達です。負の感情をバラ撒いているよりはよっぽど良いことだと思います。しかし、時としてこういった層が批判に対してデタラメな反論をすることが火種になることも多いですし、前述した通り、安易な批判をする層と根本が一緒なので視点を変えればそういった人達は信仰のもとに他を叩き始める危険性を持っているのです。

 

 これはなにも武術、近代格闘技に限った話ではありません。私が以前から書く書くといって始まっていないダークソウルの考察に関しても同じ様なちゃんと理解していない層の対立で炎上が起こったことがありますし、政治批判にせよ、創作物への批評にせよ同じ様な火種はどこにでも有ります。

 

 こういった存在にならない為に必要な思考は相手の説明や表現を自分の中に落とし込んで理解するという事です。そしてなるべくなら肯定的に受け取る努力もした方が良いと思います。以前書いた記事のような思考法です。

 

 ここで勘違いしてはいけないのが否定をしてはいけないということでは決してないということです。しかし、油断すると人は否定的な意見に負の感情を乗せがちです。

 負の感情を持つことでその対象をきちんと理解するという意志が消えてしまうことが多いのです。しかし、感情との折り合いはなかなかつけにくいので理解するための思考の方向性を変える方が恐らく効果的です。

 

 また物は考えようですが、感情的になってまで相手を否定したくなるような事象を無理に頭の中に残しておくことはストレスの原因です。もし、その事象から目を背けても直接自分が被害を被らないならそのままその件について考えることを止めてしまった方が良いです。負の感情を一種のセンサーとして捉え、無駄なリソースをどんどん省いていけば結果として穏やかな感情を手に入れることが出来ます。

 

 大事なのは深い理解です。ストレス無く理解へ至るために肯定的な視点をそしてそれが盲信に変わらぬよう適切な評価をする事を心がけましょう。