千住明の交響詩日本
推敲なしで書いてみる。
NHK教育でやっていたNHK交響楽団とオザワセイジによる上の曲の初演。
日本の民謡や伝統音楽をメドレー形式でどんどんこなしてく曲。
千住明が普段のBGMとは、大分違って色々な工夫が感じられ(オーケストレーションのカラーの変え方)、面白かった。普段のBGMは大体おんなじ色合いでまとめられているのでサントラを聴いたりすると、どれがどれやら、である。サントラのベストを一度買ったが実にその、幅広い作品で、同じ語法で喋っているなと思った。
オーケストレーションにオリジナルの味わいがありすぎて、それで押し切れてしまうようにも見える。普通の人がそれをやれば、何もないのであるが、千住がやれば千住明が残るのである。ワンパターンとでも言えるし、オリジナリティでもいい。それが良いか悪いかという議論には興味が持てない。現象があるという以外の感想はない。
日本の民謡などを使ったものとしては外山雄三のラプソディなんかがあるが、あれはなかなか恥ずかしい。
素朴すぎて、堂々としすぎていて気恥ずかしいところがちょっとある。
それに比べると、洒落たセンスで、さらりと聴ける。千住の音楽自体が、最初期はイギリスぽく、それからも折々でイギリス風であるから、土俗性を出した外山のに比べると、当然かもしれない。
ところで解説のモロイシサチオという人であるが、「千住明という人は、実に幅広く活躍していて、テレビの音楽。そして映画の音楽。」と言っていたが、それは全然広くないだろう。どうなっているのか。
ところどころに千住明らしいオケサウンドがあって、それを聞き出すのもファンとして楽しかった。
千住の音楽は子供心に印象強いものだった。伸びやかにメロディを歌うヴァイオリン、豊かでのんびりとしたオーボエのソロ、ホルンのおおらかなメロディ、テュッティ前でかき鳴るハープ、テュッティで鳴るトライアングル。交響組曲thousandnestsにはもうこれらが全部入っていた。それらを手札として使いながらちょこちょことしたBGMを作っていて、今日久しぶりに十分な長さと工夫の音楽を聴いた。
前衛ではないと思うし、特に細かな作曲技法も一聴ではわからないが、にこにこして聴いたものだった。
ん、推敲なし。
体のこと
検査は結局4月か。それより親族が不安だ。あそこは昔からぼんくら部隊で困ったものだ。何故あんなところに行くのか理解するのに大変だ。
足が冷える。床からの冷気、玄関側からの冷気の両方があるな。歩きに出ているとあったまってくるのだけれど。
色々見てきた。
劇団のライブ、カープス、ジュンゾウ。
なんか楽しかった。なんか感動したぞ。なんかだけどすっきりしてわかる、真っ暗で先がわからないのはそうだが。
ケチクンも学びたいけど(控えめな専門用語がまずわからなかったから)どっちかというとポエットなんだ。
時間が無いとは言えないほど無駄が多いが、なかなか消せないゲツジンもある。
さてさて、いやあさてさて。
12の8の楽しみの、んーラーターさんが知ってる人だった。担当編集なのかな?
面識はなかりゃこふ。
食事は順調。腹はこれから。いや、惰性で食わさんとしていたものよ。℃か食いだもんな。
加速したいところだ。
どうすればいいのか。
遠く及ばないと。全く出口が見えない。いや見えている。そこまでの道のりが遠い。いやこれも違う。
問題はネットだ。インターネット。
100人もいればたくさんだ。自分だけの、はないのだ。なぜこんなにもいるのか、いて当然だけど、苦しくなる。いや苦しくはない。どうしたらいいのか。
ボクの言葉では遠く及ばない。わたしのペンでは走らない。大越冬どころではない。このおなかにくる重さはなんだろう。
一人が奪われて100人になる。100人は愛がある。僕だけの発見はない。それは最初からなかったことで、これを乗り切れるかが我慢のしどころだ。しどころだ。しどろもどろ。、。d。、、
この年で勝てるわけがない。いや、その年でも怪しいか。そこにたどり着けるのか。
いや自分は歩めている。色々やった。箇条書きに出来る。言葉で、文で説明できる。
いようしいようや言おうや況や。
感情を操作、日本語でははまらない、制御か。ここは制御としよい。
あらためて。と言いながらもあらためることはしないで。
感情を制御できるのか。揺れた後に、では我慢だ。揺れないように、では頑なだ。かたくななななまでにできることがあるのか。
その心は?
独楽人?
具合がいい。
体調がだいぶん優れている。これはいいことだ。しかしここは油断をしてしまうことに気をつける。
思考が走る。情熱が進む。これは良くない。
体調、悪いときにそうなることも良くない。
一時的な好調不調が過ぎた後、ままならなくなる。
手綱を締める。
自分のやるべきことを見失う。
思い出せば、やることは決まっている。
万端とは美しい字面に思えて。
あれが来たら、書く準備はできている。千と言っているが、あの人は気分の乱高下の激しい人だ。
同じ大様タイプであればよくわかる。発言やなにかから、少しだけ近しいものを感じる。
問題は、どうやって自分の思いを商売にしているか。巧みだ、などとはいえない。知らないもの。巧みかどうかの基準もつくっていないし、作るのも面倒だ。
まず、社会や世界への基本的認識があって、それをベースにして受け入れやすそうでさらに目新しい結論を作っていく。
結婚の話も人間タイプ別の話もその種類のひとつではないか。今回はその新設の大学やらのであれしたのか。時間をかけて練り上げてくる、練り上げ自体はちょっと自分も他人もだますのよ的部分がないでもないから全肯定も出来ないけれど、といってつまらないわけでもない。まさに読むべきものだのところにはおいておける方ですから面倒です。
一番最初の本がとても先鋭的だったと思う。ところでその最初つながりで爆笑問 題であるけれど。
先だっての和製wwEのラジオ感想のときに相方がとんちんかんな受け答えで、まあそれで思い出したのが昔、両者の差は歴然と評価した人の話。えいと考えれば私もそれには賛成だけど。
受け答えの妙で判断する風潮はどうしたものか。出し抜くには楽々ですけれども、さて困ったのはそんなのが下につくことだ。困った。教えるでもなく、使わぬでもなく、しかし使えぬのであった。完全指示出しでいいのかあ。それで他人に評価されてそこそこ上に行くのか。その先はとても無理で、損害を与えて、でも誰も悪いことをしていないのか。小回りが効く才能持ちがうらやましい。ここでは紛れもないものを才能としている。小田原のオーバマンの気持ちはちょっとわかる現場知らないですけども。
帰ってきた。
しずかな空気が懐かしい。清らになる気もする。長すぎればそれは、のろくささになる。
向う側に居る幸せではなく、お申し合わせであった。
さて、これからはなんとするか。
実際に見るは、この先。
遠くに来てしまったものだ。
aa desaki
ああ出先はよい。体がリフレッシャイ。私ができることがあるとしていたが、それを持っていくにあたって起こった問題であるが、あまり考えないでがをつなげようとしているが、いかにも陳腐だが。
うまくいかない。ちゃんと構成を考えなければいけない。
ところでYOSIMTOばななであることよ。なんと言う吉本!!なんというばなば!!
私にこれほど与えたのは何か。編む利他ではなかったrとうか。
人に見せない文章というのは心地よいな。それでも見られるかもしれないのがまたなんともいえない。
ぎりぎりの感覚であるが優越感は感じていないがわかることわからないことをすべて捨て去って考えて、それを持たない生物のようにあがいて振舞ってまた生きていたら、きっとそれは今の自分がわかったきがする。おそらく、ちょっと見てもらいたいんだと思う。
歌を詠みたいが詩時計の鐘は遠い。
へんしゅうをしてから
掃除、料理、してから出発。
久しぶりだな。明日が楽しみだ。あの空気。冷浄な空気。
今日の木三は参った。あれでは読まずにいられない。許さん!とも思った。
新書サイズなら買えるだろうな。軽々しそうだしさ。
差違羊紗令太
あれれ。ふーん。へへーん。
びっくらこいたな。ビクリーした。
デビッド。
アガラン。
問題設定として、よくわからないが、彼は何をか思うのであろう。
私は、さっきのことで驚くよりも不思議だが。秤の話ね。
考えるヒントのヒントであるのか。そうであれば踏み込まないオレはなによー、ということになるが、その先にあるのはおそらくゲームーではないか。八双術というか、それでは剣豪ですか。
最初 ですかと書いたらアボットを思い出したよ。大盛りですか。いやダイエット中。