街の灯(上)

 

 

 国語のできる子できない子というタイトルで国語セミナーを毎年やっていた。普通とは違う視点なので、ある意味文科省批判なのだが、アンケートでは目からうろこという言葉をいっぱいもらった。

 

 国語離れ、読書離れが著しいと叫ばれはじめてかなりの月日が経つ。今はスマホの普及がその要因であるのは言うまでもない。しかし、我々の子供時代(50~60年前)も実はそう言われていた。その時の主な要因は、テレビとマンガだった。

 文明文化の転換期に必ず弱体化が叫ばれるのが国語力なのだ。他科目が著しく弱体化したという話はあまり耳にしない。

 文明文化が僕が生きている間だけでも二度も大きな転換期を迎えているのに、驚くべきことに小学校の国語教育は、基本的に変わっていない。この時代遅れ感は、国語嫌いを増殖させる大きな原因になっていると考える。

「国語ができるできない」以前に、「国語が好きか嫌いか」から考えてみたい。

 

 (一)、漢字のトメ、ハネを注意する。

 学校では、未だにこの作業に重点を置いているようだ。今の小学生が大人になるころ、ほとんど字は書くものではなくなって打つものになっている。自分の名前くらいで、他は打つのみの時代のはずだ。それなのにトメ、ハネを学校が言うし、親もそういう教育を受けているもんだから、これでもかという程厳しくトメ、ハネを注意する。僕の時代もそうだったが、ほんの少しハネたからといって、10回やり直し。もうわかっているのに理不尽に罰書きさせられて、国語が嫌になった。そもそもトメ、ハネは書道の流派から来ている。筆順も同じ。たった一個の漢字に書く順を覚えさせ、トメ、ハネを硬筆なのに強要される。文字とは本来、意味を形として残すという役割のものだ。トメ、ハネ、筆順は美しい字の書き方、つまり書道のもので、これからの時代にはほとんど実役はない。これで苦しめられて、国語嫌いになったのでは、元も子もないのではないか。

 

 (二)、わからなければ辞書を引け。

 こういう指導をしている学校に親からクレームはないという。子供に辞書を引かせるようにするのは当然だという考えが親にはあるようだ。しかし、これもまた今や、スマホにむかってその単語を話せば、あるいは入力すれば簡単にさがせる時代である。今、大人のどれくらいの人が辞書を引いて意味を調べているだろう。

 僕達の時代には、この考え方はまだ教育の基本だったように思う。だが、僕はこの作業が面倒くさくて大嫌いだった。したがって、「意味調べ」と称する宿題が出ると、真面目にキチッとやってくる女子のノートを借りて写していたことを覚えている。ちょうど小学生向けの国語辞典が出始めた頃だったと思う。それだって字が小さい。まして大人用の辞書となると、字が小さいうえに書いてあることがよくわからない。そのうち、いちいち辞書を引かされることに辟易し、国語の読むという行為が嫌になった。

 

 (三)、学校推薦図書を読め。

 「推薦図書」と言うと、まちがいなく良書だというふうに思う人が多い。もちろん良書だと思う人はそれでいいが、本来読書というものは各々で自分にとっての良書を持つべきものである。そのきっかけになればということで推薦図書は示されるのであろう。だが、推薦しているのは大人である。大人にとっての良書が必ずしも子供にとっても良書であるとは限らない。むしろ、面白くないと感じることが多いのではないか。

全員一緒に読まなければならない時は仕方がなかったが、なにかの弾みで感想文コンクールに出品せよと言う時は迷惑だった。小学校二年生の時、そういうことがあって、大して面白いと思わなかったからそう書いたら、怒られた。メンバーチェンジさせられたが、ホッとしたことは覚えている。4年か5年の時も同じようなことがあって、少し大きくなっていたので、書けない責任で眠れなくなったことがある。もちろん子供だから眠ったのだろうが(笑)。

 二年の時は題名は忘れたが、「猫が鰯を食った」みたいな話で、上級の時は「アグラへの冒険旅行」という本だったと思う。当時の僕には厚い本で、読むだけで大変苦痛だったことを覚えている。だいたい当時の僕の読書と言えば、「巨人の星」と「あしたのジョー」で、そちらを読むのが忙しく、推薦図書など読んでいるヒマはなかった。だから、やっぱり読書が嫌いになりかけた。

 

 戦後日本の公教育は、何か子供に活字を嫌いにさせるような方法をずっと続けているような気がしてならない。算数の筆算において定規で線を引けというのもわからないが。

 

 「街の灯」は名作だらけのチャールズ・チャップリンの代表作のひとつである。

 盲目の花売り娘に恋をした浮浪者が、金持ちのふりをして彼女に手術代を渡す。やがて目が見えるようになった彼女は、自分の恩人が浮浪者だったことに気付く。

 何にも知らない子供達に正しいと教えこんでいたのが、実はそんな立派な人ではなかったという点に現実をみる気がしている。

 

 

 

 

 

 中学受験は、親が子供に贈る最高のプレゼントである。敗れざる十二歳の青春——。

 

 自分は、島根県の山の中の田舎町の出身だから、中学受験なんて世界は知らなかった。私立の中学校があるなんてしらなかったし、受験とは高校からで、中学は義務教育だから誰でも行けると思っていた。

 だから、塾のアルバイトも高校受験の英語をやっていた。小学生が夜の9時10時まで勉強するなんて可哀想にしか思わなかった。中学受験の大手塾に採用された時も食事会でそう言ったら、偉い人にどなられた。

 

 今は全く違う。生徒たちを見ていて、

 「なんて幸せな奴等なんだろう」とうらやましく思ってしまう。

 

 中学受験には、次の4つのパターンがある。これは、入塾説明会でいつも話すことである。

 ⓵ 受かるべきして受かる

 誰が考えても一番いいように思う。親も子も先生もみんなうれしい。そのぶん、すぐ忘れてしまう。波風がないぶん塾屋は、嬉しさ半分、ホッとする半分で、安心して翌年の受験生と向き合える。努力が実るという点では、最高の結果だから、誰もが一番受験させてよかったと思えるパターンだ。前回の「陽のあたる場所」に書いた「C」のようなケースだ。

 ⓶ 受かるべくして落ちる

 誰もが傷つく。一見最悪のパターンだと思ってしまう。努力をしているからこそ、理解力もあるからこそ、当然誰しも合格すると信じていただけにショックは大きい。我々の体調が悪くなるのもこのパターンだ。しかし、40年以上もこの仕事をしてくると、必ずしもこれが最悪のパターンだとは言えないとわかってくる。こういう子は、実力はあるのだから、第二志望、第三志望には必ず合格する。

 僕のかけがえのない自慢の生徒にSというのがいる。彼は教室のトップだった。誰しも彼は開成に合格するものだと思っていた。事実、彼以外の何人もの合格者がでた。しかし、彼だけが落ちた。詳細は、別に書き印すつもりだが、彼は海城中に進学し、海城をこよなく愛する男になっていた。東大に進み、大学院の宇宙工学博士課程唯一の卒業生として卒業した。そして、本物の優しさと責任感と厳しさを兼ね備えた男に成長した。「中学受験」という場面を切りとれば、一発試験というシステムに理不尽な運命にさらされた人間ということになる。しかし、人生という視点でとらえれば、彼にとっての開成不合格は、実に大きな意味をもった出来事だったにちがいない。すんなり合格していたら、あれほど人の気持ちがわかる真の優しい人間になったであろうか。あんなにも自己を律し、責任感の強い男になったであろうか。

 中学受験は、ゴールではない。失敗こそ人生の学びの宝庫であるとは誰しも認めるところ。とは言え、十二歳の少年の心の傷は深かったにちがいない。親もまた。彼の素晴らしかったのは、それをひきずらないように見せ、やがて海城を最も誇りとするように価値観を変換してみせたことだ。理不尽な運命をプラスに変換させる知性があったということだ。実はこのパターンの人間が一番魅力的な人間になっているケースが多い。人生という視点に立てば、この経験を我が子に与えられるのは、最高のプレゼントではないか。十二歳の失敗は敗れざるものである。

 ⓷ 落ちるべくして落ちる

 勉強もいいかげんにしかやらず、親にもふてくされた態度しかしない奴。しかも、結果は散々。中学受験なんてやらせるんじゃなかったと親が嘆くパターンである。こういう子に限って、あいさつに来て泣きじゃくってみせたりする。僕は、親の居る前でこう言う、「ちゃんと勉強しなかった人間が、落ちたという結果で泣くなんて認めない。落ちて当たり前じゃないか!」。

 こういう人生をなめた子供に、「誰のせいでもない、自分のせいだ。」と教えるには絶好のチャンスである、と僕は思っている。可哀想だと思っている親御さんはともかく、本人にとっては「やるべきことをやらなかった」自分を深く見つめ直すチャンスである。どこかで書いたと思うが、「落ちるという経験をさせたくて、中学受験をさせたんだ。」と親は本気で思ってほしい。そうすれば、必ず子供の心に何かが生まれる。可哀想じゃない。自分を救うのは自分しかいないのだ。

 以上、落ちることも含めて、中学受験は、親のエゴでやらせるものでないなら、何ひとつやらせない理由はないと思う。

 ⓸ 落ちるべくして受かる

 たったひとつ、心配なパターンがある。本当は落ちるべきだったのに、たまたま受かってしまうパターンだ。子供は、小学生だからその時が来るまで、「まぁ何とかなるだろう」くらいしか思っていない。それが落ちた方が良かったのに受かってしまうと、人生をなめてしまうケースがある。そうなると、大学受験の時も「何とかなるだろう」と思ってしまい、ひどい結果にようやく気づかされるというのをいくつか見たことがある。小学校で気づくか高校で気づくかの違いだが、それぐらい子供にとっては、初めての人生を知る機会であるのが中学受験だ。合否を越えた人生の登竜門といえるチャレンジができる子供達は、幸せ以外の何物でもない。勉強漬けなんて可哀想だと言ってる親は、いつ子供を手放すのだろう。

 

 フェデリコ・フェリーニの「道」純粋で不器用なジェルソミーナを虐待する保護者ザンパノ。ザンパノを愚かだと言う大人は、自分の愚かさをわかってない人だろう。

 

 

コロナ元年入塾生の卒業アルバム

 

閑 話 休 題 ②

 

 ブログを立ち上げて10話。今日(5月31日)で24日めになる。

最近は否応なく死期を考えて生き急ぐような日々だ。この日々に後悔はない。

 郷土の先輩竹内まりやの「人生の扉」では「満開の桜や色づく山の紅葉をこの先いったい何度目にすることだろう」とあるが、僕の場合はこの世の景色を目に焼きつけることよりも人の思いに胸が熱くなり涙することが急に増えてしまった。こんなにも自分は人に愛されていたのかと、自分で言うのも変だが、幸せな人生をもらったのだと感じている。前なら気づけなかった人の思いやりや親切が心に刺さることばかりだ。

 

 六月中旬か下旬に二度めの手術を受けることになった。これは完治するためのものではなく、最低一年の延命を願うものだ。昨年の11月に、医師から「このままでは半年、よく保っても来年(つまり今年)いっぱいは無理でしょう。」と言われた。

 この時、自分がやり残したことをやりたいという気持ちに決心がついた。本を残したいと熱望した。自分の愛する人達に自分の考えたことを残しておきたいと思った。そのために、一年間、辛いので止めていた抗癌剤治療を再開した。

 実は11月に担当医が交替した。新しい担当医が素晴らしい人だった。たとえれば、「白い巨塔」の里見修二先生のような人。その先生が、僕の余生のためにもう一度手術することを提案してくれた。(前の先生は手術は無理だと)。「肝臓に転移した全ての癌細胞を取り除くことはできなくても、大きくなった二つの部分を取り除くことで、少なくとも延命になります。」

 この歳になると、ただ長生きしたいとは思わなくなっている。寝たきりのまま、ただ呼吸をしているだけは嫌だと考える。僕には気がかりな家族ももういないし、ただただ愛する人々のために、支援してくれた人々のために書き残すための時間がほしかった。感謝の気持ちを残したいと思った。

 

 僕の周りでは、「お酒はダメ」「煙草はダメ」と言う人は一人もいない。いや、いなくなった。誰もが言うことを、平気で言う人間の言葉を親切だと感じたことはない。

 教え子に大腸癌の専門医になろうとしている男がいる。その男は、

 「先生の万節を汚すことのないようにしたいです。」と言ってくれた。医者なのに、病気の僕と長時間痛飲し、煙草を一本差し出し、

 「煙草が癌によくないというちゃんとしたエビデンスなんかないんですよ」と言う。

 医者の風上にも置けない奴だと思う人もいるかもしれない。が、こいつはいい医者になると確信した。僕の酒煙草を止めなかったからではない。エビデンスがなくても、酒煙草が体によくないことは誰でも知っている。僕の担当医の「里見先生」も彼も我々と同じようなポリシーがあると感じたからだ。病気を看てるんじゃなくて人を看ていると感じたからだ。

 我々塾屋も似ている。生徒が10人いれば10人の指導がある。マニュアルなんかない。僕が優秀だと思う塾屋は、勉強を見るのではなく人を見てる人だ。

 

 クラウドファンディングをやる。初めてのことに挑む。第三の青春は、今こそのチャレンジをするということだ。

 

 僕の周りには、表面は仲良く、裏で悪口を言い合うような大人はいない。相手を思いやる心があるのなら、嘘やかくしごとを持って僕とつき合うことはできないと宣言したいくらいだ(笑)。

 

 追伸

 「アメーバブログのフォロワーになり、いいねをつけたくても、手続きが面倒でよくわからない」とのお話を多数いただきました。申し訳ありません。僕も全くできません。読んでいただくだけで十分感謝しております。スマホが不得意な者同士、面倒な世の中を呪いながらブログで繋がりましょう(笑)。

 

陽のあたる場所(下)

 

 

 凡人にとって「陽のあたる場所」とはどんな場所を言うのだろう。

 

 「陽のあたる場所」という映画は、貧しい青年が、今で言う上級国民にのし上がろうとして、犯罪者になってしまう話である。上級国民をめざして犯罪に手を染めるなんて今ではよくある話だ。主人公は日蔭から陽のあたる場所に行きたかった。しかし、簡単に上級国民になるためには、人間の罪深い部分に踏み込むしかなかったのである。

 

 Aは二人の子供をもつ母親である。彼女は受験の時、自分の子供は放っておいて別の生徒の応援に行く人である。そのくせ今年の東大の五月祭で教え子が自転車で新潟から寝ずに帰ってくるイベントに教え子の同級生である自分の娘と出かけ、教え子が完走し自分の自転車を高々と掲げるのを見て号泣している。その姿を娘が写真に撮っていた。塾屋はふつうここまで卒業生に関わることはない。僕は素直にこの(ひと)に拍手を送る。その他の卒業生達のイベントに休みを返上して出かけていく。自分の卒業生をこれ程大切にしてくれる人を他に知らない。彼女はまさに「天職」の中にいるのだとある種の感動を覚えながら、号泣姿の写真を見た。この人がいるということだけで我が塾は特別だと誇ってよいと思っている。

 

 Cが二度目に来たのは、一度めからさらに十六、七年の歳月が流れた僕の「還暦祝い」の時である。呼びかけに快く応えてくれた。ちょっと照れくさいが、自分の思い出として書き留めておく。僕とのかけ合いスピーチで彼が言ってくれた言葉。

 「僕があまりにも質問攻めにするものだから、先生に廊下に連れ出され、『C、おまえ一人の授業ではない。質問は後で受けるからみんなのためにひとまず引け』と言われたことを覚えています。」

 「先生は、本当に優しい人ですね。」

 「今頃気付いたのか。」

そう言うと、彼が本物の優しい顔で笑っていた。

 「僕にとっての国語の先生はアンポン先生のことを言います。」

 「開成の先生ではなくて?」

 「開成の先生ではありません。」

 余談になるが、これに似た発言をした中学生がいた。彼は開成を蹴って渋幕に進学した。今は東大を飛び級して大学院に進み、上級国民をめざしてまっしぐららしい。あれほど魅力的だった彼が、今はあまり魅力を感じなくなったのは自分が偏屈だからか。

 

 Cと二人になった時、一度めに来た時の「青春の決着をつけに来たことを覚えているか」と聞いた。

 「あの頃の僕は完璧を求め過ぎていたのだと思います。今考えれば12歳の子供が人の気持ちを全部わかるなんて有り得ないのに、どうしても自分の未熟さにこだわっていたのだと思います。」

 しっかり自分をみつめる眼があった。彼の母が言うごとく「人には人の生まれつきの能力がある」を忠実に生きていると感じた。

 彼は、自分の短所もしっかりみつめていた。

 「子供の頃、自分は体育が大の苦手でした。」

 確かにオール5の通知表の中で、体育が1だったのを見せてもらった記憶がある。彼はそれを隠さなかった。「誰にでも苦手なことがある。そういう自分をみつめることで他者への思いやりを持つ人になりなさい。」

 学力の天才が鼻もちならない人格にならず、逆に謙虚で優しい大人になったのは、母の厳しさと優しさがあったからだ。ありそうでなかなかないことである。それは、勝ち組(金持ち)をめざすのではなく、自分の能力をどう活かすかを人生の目的に置くことを一義と考える素養が彼に育っていたからである。自分の母を「賢人」とリスペクトできる客観性が彼に植えつけられていたからである。

 

 三度めの再会は去年(二〇二四年)の十月。僕の病気を知り、当時の塾仲間三人で来てくれた。二度めからさらに7年の歳月が流れていた。

 その友人の一人にTという男がいる。彼はCの友人であると共に、Cのウォッチャーでもある。Cの節目節目の情報はほとんど彼から聞いた。いわく、センター試験でCは、英語で2点落としただけで他は全て満点である(苦笑)とか...。

 Tもナイスガイの教え子である。実は彼も開成を受験し、落ちた。その時Cが本気で泣いてくれたという。本気か演技かは、その時の当人にはわかるものだ。僕にもわかる。他人の幸不幸を自分のことのように感じられる少年だった。

 Cと色々話をした。実は一度めに来た時、彼もまた東大理Ⅲなら医師になるのかと思い、「優秀生はみんな医者になるなぁ、おまえならノーベル賞でもとってくれないかなぁ」と冗談半分で言ったりした。今は、違う。「自分は自分。人は人。」なのだ。

 

 Cは今東大病院の小児科医である。二十三、四年の歳月は、天才少年を成熟した謙虚な医師に成長させていた。いや、少年の時の素の優しさと謙虚さを持ったまま大人になったと言うべきか。専門は神経科。特に発達障害の子を診療しているらしい。

 「母の教えは、僕の考え方の基礎になっていますし、発達障害の子供達を診療する小児科医の思いでもあります。」

 まさしくCの「天職」である。

 「Cは、地味に真面目に努力してきたんだなぁ」と、しみじみ感心して言った。

 「その言葉が一番うれしいです。」と、Cはあどけなささえ残る顔でにっこり微笑んだ。

 

 各々の「陽のあたる場所」は違う。違ってあたり前なのだ。人生を、与えらえた能力で一生懸命生きている人間が最も美しい。

 

 「陽のあたる場所」は日蔭を経験した者にしか本当の有り難みはわからない。前述のAもCも日蔭の時があるに違いない。だが、仕事は違えど僕には二人共「陽のあたる場所」にいる人だと思えてならない。

 

 学業の天才と塾屋の女神。二人の後ろに厳しい母親の姿がある。二人共リスペクトしているのは「厳しい母」であり、だからこそ優しさが染みついたのではないか。本質的に二人共優しい。だから頑張った者の喜びや悲しみを自分のことのように感じるのだ。「他人の不幸は蜜の味」などと大人ぶったしたり顔で言う俗物にはできないことだ。

 

 最近も言われた、Aのよく言う言葉。

 「私は、一度も先生に褒められたことがありません。」

 面倒だから、書いてやった。

 

 

龍馬10周年記念イベント2

第一話「若者のすべて」の息子登場

陽のあたる場所(中)

 

 

 本題はここからである。

 この本を書くためにブログをやることを伝えたら、Cから返事が来た。

 彼が初めて話してくれたのは幼少期の自分と母のことだった。

 「ブログ、フォロワーになりました。アンポン先生の考えは、僕や僕の母と同じだと思いました。僕の母は、息子ながら賢人だと思っています。『自分は自分。人は人』と教えられてきました。」

 少年Cの母は、「人には各々の生き方がある」と人生で一番根本にある厳しいことを教えていた。「自分は自分、人は人」とは、「他人のことはどうでもよい。自分さえ良ければよい。」とは真逆の真実を持つ。

 「自分の短所と長所をしっかりみつめよ。短所をみつめて人並みに出来ないときの気持ちを知り、相手の気持ちがわかる人間になりなさい。長所を見つめることで自分の成すべき道を見つけなさい。他人と比較しておごることも劣等感を感じる必要もない。他人を気にして自分の行く道を踏みまちがえてはいけない。自分ができることをしっかりやりなさい」と言うことである。

 よく低学年の子供が、「この先生は優しい、それとも怖い?」と聞いてくることがある。「優しい」と「怖い」はそもそも対立概念ではない。「怖い」を「厳しい」と置き換えても子供達には同じ意味だろう。

 人生を考える時、親が子供に与えるべきは「厳しさ」と「優しさ」の両方であることは自明のことだ。厳しさのない優しさなどただの甘やかしに過ぎない。親の愛情とは、この両立があって初めて本物の愛情と呼んでいいものになる。先生もまた同じ。

 

 Cの話を続ける。

 「僕が幼稚園の年長で、型にはめようとする担当がおそらく嫌で、あとおそらく園がつまらなくて登園拒否になった時、『幼稚園は義務教育ではないから通わなくてもいい。その代わり小学生になったら義務教育だから通うように』と母は守ってくれました。その担当と話した時、母は『先生には先生のお考えがあるのはよく分かりますし、悪いとは思いません。うちの息子が合わないだけです。』とその担当を立てるように話したそうです。」

 相手を責めるのではなく、(良くはないが)悪いとは言わない態度。そのうえで、『うちの息子が合わないだけです』と言い切った。「うちの息子が悪いんです」とは言わない。言いかえれば、私の育て方はあなたとは違うんですと言っているのである。見事な「自分は自分。人は人」である。

 

 うちのスタッフにAという女性がいる。僕が最も愛するスタッフである。彼女も同じように母親に厳しく人生の生き方を叩きこまれたようだ。彼女も自分の母親へのリスペクトを公言してはばからない。

 Aにもこんな話を聞いたことがある。

 「小学校五年生の時、悪ガキとケンカし、本人達と双方の親が校長室に呼ばれました。担任が、『このままでは娘さんは不良になりますよ。』と言った時、私の母は『不良でも何でも結構。責任は親にある。私が育てているのだから、私が責任を負うでかまいません。』と言って、『さて、帰るよ』と私を連れて校長室を出て行きました。その後、私は母からなーんにも言われなかった。」

 娘にとって何と頼もしい母であったことだろう。厳しく育てていたからこそ、我が娘が無意味にケンカなどするわけがない。娘がそうしたのにはきっと訳がある。

 「ケンカをすればどちらも両成敗、ましてや女の子なのに」という価値観にあてはめようする担任の言葉など一蹴して、『不良になったなら親の責任』と言い切った。厳しく育てた我が子を信頼しきっているからこそのセリフである。相手を責めるのではなく「責任は自分にある」という姿勢が親の鏡である。

 ケンカという「結果」で判断するのではなく、なぜそうなったのかを問題にしない教師など「常識」にしばられた俗物にすぎない。

 何故そうなったかこそ大人が子供に教えることである。そのうえで、方法は他にもあったかもしれないと考えさせるべきである。

 「このままでは不良になる」というセリフを吐く大人に囲まれれば、その無理解さこそ子供をグレさせる原因になりかねない。

 彼女の母は彼女に何も言わなかった。おまえが正しいと思ったことなのだから自分で考えなさい。まだ子供なのだから、責任は私がとるという姿勢で子供を教育した。娘は、厳しさの中に自分への信頼という「優しさ」を母に見たのであろう。

 

 二人の母は、一般常識から我が子を教育するのではなく、自らの信念に従って教育をしてきたのである。親が素敵だからこそ、その子が俗物とは一味ちがう魅力を持つ人間になる二例だろう。「子供の責任は親の責任」という当たり前のことを、常識からしか物事を判断しない大人はできない。常識とは、他人が決めた一般論にすぎないのだ。

 

 

龍馬10周年記念イベント1

第一話「若者のすべて」の母親登場(アンポン51歳時)

 

陽のあたる場所(下)につづく