みなさんこんばんはにっこり


今日は読書記録の記事です。



読書はボチボチしているものの、


読む速度が圧倒的に落ちたからなのか、


日々のイベントを優先しているからなのか、


はたまたやる気の問題なのか←ドキッ!笑


なかなか記事にできていませんが、


時々書いています。




今回紹介する本は


「牧師、閉鎖病棟に入る。」です。



一応前置きしておくと、


私は、


夏祭りにクリスマス。


お盆、お彼岸、ハロウィン、イースター。


厄払いに初詣。


と、何でもありの宗教観です。

それを「ただ遊びたいだけの人」と人は言う笑


牧師さんの書いた本だから、


キリスト教の信者向けの本なのか。


といえば、そんなことはありませんでした。


各自が自由にもっている宗教観とは関係なく、


純粋なる治療記録として、


共感できること、参考になることが書いてある


と思いました。



で、


この本ですが、タイトル通り、


牧師である沼田和也さんが、


妻の勧めにより、閉鎖病棟に入院した話でした。



閉鎖病棟入院からの開放病棟入院。


からの退院、復職。


という形で話が進み、


今はどこかの教会で牧師をされているそうです。



沼田さんは、牧師兼大幼稚園の理事長をされて


いたのですが、


過労やストレス等、さまざまな要因


により、職場でキレてしまった上に、牧師館に


立て籠もるという病的な反応が出たことを機に、


閉鎖病棟に入院したそうです。



閉鎖病棟の中での出来事や、


そこで出会った人たちのことはもちろん、


彼のこれまでの紆余曲折の人生や


可能性あり、強い傾向ありをも含めた病名


についても書かれていました。


それは、


自閉症スペクトラム、妄想性障害、


境界性パーソナリティ障害等でした。


これについて書くと長くなるので


ここでは控えますが、興味の湧いた方は、


読んでみてください。




そういうことで、


私の病気は沼田さんとは違うのですが、


読んでいて心に残った言葉がいくつもありました。



その中で、私が最も共感した言葉は、


沼田さんの主治医が入院中の沼田さんに言った


この言葉でした。


 先生(沼田さんのこと)、あなたは今さぞかし、わたしに自分のありのままを受け入れてほしいんでしょうね。「今までよく頑張ったね。おつかれさま。あなたは悪くないんですよ。」と慰めてもらいたいんでしょう?そうやって労ってもらいたいんでしょうね。みんな周りのせいにして。でも、ここでやるべきことは、それじゃあないんですよ。あなたがこれまで積み重ねてきた挫折の数々。あなたはそこにある共通点を見つけ出し、見つめ、内省を深めなければならないんです。そうでなければ、あなたはこれからも同じ挫折を繰り返すだけです。あなたは何も変わらないでしょうね。ほんとうに変わりたいのであれば、あなたは自己の内面を見つめ、なぜ今こうなっているのか自らの思考の癖について考えを深めていかなければならないんですよ。それができないというのであれば、治療はここでお終いです。


これは、


とても厳しい言葉だと思いました。


厳しくも、


実に的確な医療指導だとも思いました。



内省を深める。


後にこれが、


これこそが、


思考の歪みによって、今まで苦しい人生を


歩んでこられた沼田さんのスタートライン


となっていったわけです。




本にも書いてありましたが、


このようなことを言うことによって主治医は、


彼を卑下して、


貶めようとしたわけでは決してありません。



むしろそうすることで、最終的に、


沼田さんに自信をつけさせるために、


意図的にこの厳しい言葉を突きつけていた


のでした。



これ、当然だと思います。


病原を突き止め、それを治療するのが医師の


仕事なのですから。



患者が痛がるからやめておこう…と言って、


手術も無しに、複雑粉砕骨折を治せる医者は


いないでしょうから。


ブラック・ジャックでも無理だと思います!笑


目には見えねど、


心の骨折にも大手術が必要なんですよね。

他科と同様に、病の種類にもよりますが。

切る必要がない病もありますからね。




沼田さんの話に戻すと、


この言葉を聞いて、沼田さんは当初、


かなり激しく反駁しました。


主治医とは何度も対立し、


それこそ、椅子を蹴ったり、怒鳴ったり等、


暴力的なこともしてしまったと書いてありました。

普通は通報されますね。

病院に、ポスター貼ってありますものね。

医師への暴言暴力は通報しますって。

病気でも「ならぬものはならぬ」なんですよね。


しかも、


インテリである彼は、


さまざまな理屈を駆使して、


いかに自分の言っていることが正しいかを


主治医に示そうと、あの手この手で、


理屈をこねくり回して主張するのですが、


この主治医には、


そんなことは全く通用しませんでした。




そうして、


そういうやり取りの中で沼田さんはやがて、


自分の歪んだ思考癖を

矯正・修正していかない限り、

わたしは一生このまま

苦しい思いをし続けていくこと

になるのだ。


ということに気づいていきます。



こういうことは、


ものすごく耳の痛い話で、


いざやろうと思っても一筋縄ではいかず、


ましてや一朝一夕になど、


到底達成できるわけがありません。


ものすごくエネルギーのいることですし。


が、


彼は、


「千里の道も一歩から」と言わんがばかりに


地道に行動していったのです。



そうです!


彼は入院中、


徹底的に自己の内面と向き合い、

自分の歪んだ思考を変えるための努力をしたのです。



一応言っておくと、これは、


彼が入院中にだけ、自分と真剣に向き合った


ということではなく、


入院をきっかけに、


自分には、


そういう努力を一生続けていく必要があるのだ。


ということに気づいたことで、


スタートラインにやっと立てた。


という意味なのです。



主治医のねらいは、


まさにこれだったのでしょう。




この、


自己の内面と向き合う


このことと関連して彼は、


ありのままのあなたでいい


という言葉を牧師として散々自分が使ってきた


ことを振り返り、


こんなような内容のことを書いていました。


「ありのままのあなたでいい」ということは、一見耳心地がいい、優しい言葉に聞こえるが、実に無責任な言葉だ。

(自分自身について言えば、歪んだ思考癖をもった)「ありのままのわたし」だから、同じ失敗や苦しみを繰り返してきたのだ。「ありのままのわたし」を変えてこなかったから、いつまで経っても的外れな槍投げをし続けている。そして、その槍は最終的に、自分に向かって突き刺さって、内面からわたしを傷つける。「ありのままのわたし」では苦しくて生きづらい。


そもそも「ありのままのわたし」と自分が思っている自己像は、本当に「ありのまま」なのか、それをこそ問え!と主治医は言っているのではないだろうか…。




こういう意味で、


思考が歪んでいる

「ありのままのわたし」

のままではダメだ。


ということに気づいた沼田さんは、



「わたし」を手放しました。


潔いと思いました。



これは当然ながら、


人生を自分で終えるとか、


自分を傷つけるとか、


心を無にするとか、


そういう極端で歪んだことではありません。


思考の歪んだ自分と対峙することを決めた。


ということです。


冷静に。



そして、


これまた当たり前のことですが、


思考が歪んでいるからといって、


これまでの彼の努力や人生の全部が


ムダでダメなものだったのかと言えば、


そんなことがあるわけがありません。



しかし、御多分に洩れず、彼もやはり、


こういったい白黒思考の狭間で苦労したのです。


つまり、


他人のせいにするのが間違いなら、

何もかもが自分が悪いということなのだ!


と、今度は自己卑下へと傾いていく己の思考


と向き合あうことに、苦労したのです。




それはまぁ、


数十年かけて出来上がった思考回路を


矯正していくことは、


想像を絶する努力の積み重ねがいることでしょう。


そして、勇気も。


でも、彼はやっていったのです。



さらに彼はこんなことも言っています。


「ありのまま」を批判するということは、根性論とは全く違う。

「ありのままでいい」という言葉に、自分自身が何を求めているのかということを吟味しなくてはならないのだ。

「ありのままでいい」という言葉を武器にして、多弁な言い訳によって自己を糊塗し、なんでも人のせいにする。自分は無垢な被害者なのであり、つねに他人こそがわたしへの加害者であると、他者を断罪し続ける。それでいいのかが、今、わたしに問われているのだ。



ここで彼が言っているのは、


自分の歪んだ思考癖を矯正していくことは、


被害者ポジションに居座ることでもなく、


根性論でもなく、


自己卑下でもない、


自分の在り方を探求することなのである。


そういうことでした。



これは、


生き直す


ということなのかもしれません。






自分の弱さや醜さと向き合っていくことは、


誰もが目を背けたくなりがちなことですし、


耳の痛い話です。


人生経験の浅い子どもならまだしも、


人生の折り返し地点にいる中年男性である


沼田さんが今更それを変えて、


生き直していこうというのは、


とんでもない労力であることに疑いの余地は


ありません。


だって彼は、これまでの人生をそのスタイルで


歩んできたわけですから。

これまでこのスタイルでいくつもの困難を乗り越えてきた!という、ない方がいい厄介な自信が、年齢に比例してついてしまっていることが多く、それが災いして治療が効果を発揮しないということは、珍しい話ではないそうです。



でも彼は、


これまでの生きづらかった人生から


脱却するために、それをやっていったのです。


地道に、コツコツと、


己の内側と向き合っていったのです。



彼が最も恵まれていたことは、


そういった認知行動療法をとことん指導して


くれる主治医に出会えたこと。


ということに、やはりなるのかもしれませんが、


しかし、


どんな名医に巡り会おうとも、


医師が言っている意味を正しく理解して、


それをやってみようとする心が


患者本人の中になければ、


事態は堂々巡りをして、


負のスパイラルに陥るだけでお終いということ


なのだとも思います。



まさに、


馬を水辺に連れて行くことはできても、

水を飲ませることはできない


状態。

昔のイギリス人よ、ウマイこと言うなぁ!馬


まぁ、


その水をどうするかは、


最終的には馬が決めればいいとは思いますが。


馬にだって考えて、決める権利はあると思うので。


同じ馬でも馬鹿な決定は避けたいものです 笑


いや、「何事も経験」とも言えましょうか…


冗談ではなく、


馬鹿をやっても、それが馬鹿な選択だったと


いうことに気付き、


次回に応用させていけばいいだけなので、


それができるなら、少し回り道するだけで、


結果的には同じことだと私は思いますけどね。



自分にはそんな一面もあるのか!


と気づくことは、


生産性のあることだと思うので、


馬鹿な選択をしてしまったとしても、


この世の終わりのごとく大きく後悔したり、


自他を責めたりして、


落ち込む必要なんて、ないのだと思います。


間違えたら、何度でもやり直す。


それだけのことなのですから。




馬の話になってしまったので話を戻すと、


そういうことから、


恵まれた環境の中で、


強力なサポートを受けつつも、


自分の人生を自分の力によって変えていった


沼田さんの姿から学べることは、


誰にでも、実は結構あるのではないか。


という感想を私はもちました。




それから、本の中では、


彼が入院中に行っていた日記式の認知行動療法


についても少し書かれていました。


これは、


自分の思考がどのように歪んでいるかを


可視化できる上に、その傾向もつかみやすい。


という点においては、シンプルながらも


有効な手立てなのかもしれません。




今年も紫陽花のシーズンが到来しましたね🐌


紫陽花の花言葉は「移り気」や「浮気」「無常」 。


これは、


紫陽花の花の色が時期によって変化することに


由来しているのだとか。



ちなみに、白い紫陽花の花言葉は寛容


だそうです。




人も植物も、常に変化しながら、


その時その時を懸命に生きている。



変わらないものなど、この世には何一つない。


あらゆるものが、


川の流れのように、常に変化し続けている。



日本に古来から浸透している物の考え方である


無常観。




先日、


紫陽花を見にお出かけしてきました。


写真の取り込みがスマホにできたら、


順次載せていきたいと思います。




最後までお読みくださいまして、

ありがとうございましたハートのバルーン