今回は

トプカプ宮殿博物館の中にある更に別の博物館扱いの場所である

ハレムへ


トプカプ宮殿 の入場券 無料


通常なら

なんと、€ 44

日本円で7273円もします。

🥹🥹😂

ガイドさんが携帯チケットを持っていて

ハレム行きたい人はこっちーと呼ばれ

横目で並んでる人をみて

サクサク入場


トプカプ宮殿 (Topkapı Sarayı)】 開館時間:09:00-18:00 (入館17:00まで) ※火曜休館 入場料: 1,500トルコリラ(トプカプ宮殿+アヤイリニ+ハ レム) ※中庭を含め敷地内全域禁煙 コンスタンティノープルを征服したメフメット2世の命により 建設され、1467年に完成。


ボスポラス海峡 ヨーロッパ側から


引用します

トプカプ宮殿博物館観光

トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)は、金角湾、ボスポラス海峡、マルマラ海が臨める非常に景色が美しい場所、ビュザンティオン市(現在のイスタンブールの旧市街地区)が最初に建設された地として知られるアクロポリスの丘にあります。宮殿はイスタンブールの旧市街の半島の突端で、延長5kmの城壁に囲まれ、70万㎡もの広大な敷地を有しています。






トプカプ宮殿出入り口


こちらも引用します。

ハレム

アラブ語のハラム(=聖域)やハラーム(=禁じられた)を語源とするハレム(Harem)は、トルコ語で「女性の居室」や「後宮」を意味しています。トプカプ宮殿の最大の見どころのひとつであり、別の博物館として扱われています。元々はトプカプ宮殿の創建当時から16世紀までは市内中心部にあった旧宮殿にありましたが、後にこのトプカプ宮殿に移されました。ハレムは、高い壁に取り巻かれた細長い廊下と小さな中庭の周りに配置されたおよそ400の部屋からなっており、様々な時代の増築により拡大していきました。その中でスルタンの母后、弟たち、姉妹たちその他の家族がハレムのそれぞれ専用の部屋に暮らしていました。そして、この大きな家族のために大勢の女奴隷や宦官たちがここで奉仕していました。

外部の者が滅多に訪れることのないハレムは家庭内のプライベートな部分のようなものであり、完全に遮断されたハレムについては何世紀もの間、多くの物語が作られていきました。


スルタンとその家族に仕える女奴隷たちは、様々な人種の最も美しく健康な少女たちの中から選ばれ、買われ、贈物としてハレムに捧げられました。奴隷として連れてこられた幼い少女たちは何年もかけてハレムの厳格な掟に従い教育され、宮殿のしきたりを学んだ後で一定のグループに分けられました。女奴隷たちの中には、スルタンの目にかない妻になる者もいました。

また、宦官の多くはエジプトから差し出された黒人のヌビア出身者でした。


オスマン朝において「皇后」の称号は早くに用いられなくなり、スルタンの母后(ヴァーリデ・スルタン)がハレムを支配していました。富と豪奢の傍らでは、噂話、陰謀、スルタンに近づくための競争が日常生活の一部となっていました。

新しいスルタンが即位すると、先代のスルタンのハレムの成員は旧宮殿に移転させられました。スルタンが幼少や病弱であった場合には、ハレムの女性たちや黒人宦宮長たちが国政に影響を与え陰謀をめぐらせていました。


現在はハレムの一部分だけが一般に公開されており、活気あふれる華やかな昔の日々とは全く対照的に、薄暗い廊下とからっぽの部屋は見学者たちの想像力の中だけで蘇ります。

ハレムの部屋や天井、廊下は豊かな装飾で飾られていました。様々な時代の壁のタイルをここでは一堂に見ることが可能です。


ハレムの見学は、入口を入るとまず黒人宦宮たちの部屋から始まります。彼らの任務はおもにハレムの警備でした。イスラムの掟によって女たちと顔を合わすことはほとんどなく、食事も2重のドア越しに運ばれていました。こうした2重ドアの部屋が今でも残っています。そこから、広間と40の部屋からなるスルタンの母后の部屋へと続きます。大きなトルコ式の浴室とスルタン専用のドーム付きの広間もここにあります。重要な全ての部屋には暖炉と泉が備わっていました。


ハレムの見どころには他に、中国陶器なども置かれた大広間「皇帝の間」や、華麗な16世紀のイズニックタイルと壁にはめ込まれた泉で有名な「ムラト3世の間」、ここから入る小さな図書室の装飾と花と果実の絵を施した壁画が素晴らしい「果実の間(イェミシュ・オダス)」として知られる「アフメット3世の食堂」などがあります。

模型像


ハレム潜入













ボスポラス海峡 ヨーロッパ側から
こんな眺めをこの宮殿内から
見ることができます。

実際はもっと迫力があります。













とっても残念だったのは

下調べをしないでハレムに入ったこと。

でも

後で調べてそうだったのか、、と


そして、男性は

宦官だったんだろうな、、と

なんだか複雑でした。