だめだと思っちゃだめだ
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日蓮大聖人が「立正安国論」を認められた当時の鎌倉は、大地震が頻発し、飢饉が打ち続き、疫病が蔓延していた。
時代を問わず、人は最悪な事態が続くと、自分のいる環境、社会に絶望し、“もう、何をしてもだめだ”との思いをいだき、“この苦しい現実からなんとか逃れたい”と考えてしまいがちなものだ。
そして、今いる場所で、努力、工夫を重ねて現状を打破していくのではなく、投げやりになったり、受動的に物事を受けとめるだけになったりしてしまう。その結果、不幸の連鎖を引き起こしていくことになる。
それは、鎌倉時代における、「西方浄土」を求める現実逃避、「他力本願」という自己努力の放棄などと、軌を一にするとはいえまいか。いわば、念仏思想とは、人間が困難に追い込まれ、苦悩に沈んだ時に陥りがちな、生命傾向の象徴的な類型でもある。
つまり、人は、念仏的志向を生命の働きとしてもっているからこそ、念仏に同調していくのである。大聖人は、念仏破折をもって、あきらめ、現実逃避、無気力といった、人間の生命に内在し、結果的に人を不幸にしていく“弱さ”の根を絶とうとされたのである。
大聖人は叫ばれている。
「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり」(御書七八一ページ)と。
南無妙法蓮華経と唱え、信心に励むところが、成仏へと至る仏道修行の場所となるのだ。自分の今いるところを去って、どこかにいくのではない。この荒れ狂う現実のなかで、生命力をたぎらせ、幸福を築き上げていく道を教えているのが日蓮大聖人の仏法である。
ところで、大聖人は、念仏をはじめ、禅、律、真言の教えを厳格に検証し、批判していったが、法華経以外の諸経の意味を認めていなかったわけではない。
それは、御書の随所で、さまざまな経典を引き、信心の在り方などを示していることからも明らかである。
〈小説「新・人間革命」〉 清新 五十 2016年8月12日
法悟空 内田健一郎 画 (5875)
http://www.seikyoonline.com/article/AB4499285B81D5E62C466712AD4B5AEE
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第二代会長・戸田城聖は、青年たちへの指針のなかで、「われらは、宗教の浅深・善悪・邪正をどこまでも研究する。文献により、あるいは実態の調査により、日一日も怠ることはない。(中略)その実態を科学的に調査している」(注)と記している。
この言葉に明らかなように、創価学会もまた、日蓮大聖人の御精神を受け継いで、常に宗教への検証作業を行ってきた。
そして、調査、研究を重ね、検証を経て、日蓮仏法こそ、全人類を救済し、世界の平和を実現しうる最高の宗教であるとの確信に立ったのである。
自分が揺るがざる幸福への道を知ったとの確信があるならば、人びとにも教え伝え、共有していくことこそ、人間の道といえよう。
ゆえに学会は、布教に励むとともに、座談会という対話の場を重視し、他宗派や異なる考え方の人びとと語り合い、意見交換することに努めてきた。それは、納得と共感によって、真実、最高の教えを人びとに伝えようとしてきたからである。
宗教は、対話の窓を閉ざせば、独善主義、教条主義、権威主義の迷宮に陥ってしまう。
対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける。
座談会などでの仏法対話によって、共に信心をしてみようと入会を希望する人は多い。また、信心はしなくとも、語らいのなかで学会への誤解等は解消され、日蓮仏法への認識と理解を深めている。
そして、相手の幸せを願っての真剣な語らいが進むにつれて、私たちの真心が伝わり、人間としての信頼と友情が育まれている。
日蓮大聖人の仏法は、人間が苦悩を乗り越え、幸せを築き上げるための宗教である。
大聖人御自身が、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書七五八ページ)と仰せのように、仏法の目的は、人間の苦悩からの解放にある。
宗教が人間の救済を掲げるならば、決して人間を手段にしてはならない。
小説『新・人間革命』の引用文献
注 「青年よ国士たれ」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社
〈小説「新・人間革命」〉 清新 五十一 2016年8月13日
法悟空 内田健一郎 画 (5876)
http://www.seikyoonline.com/article/44992FA4CF8D76B4AE17D6C1BF8D5B11
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