両脇を林に挟まれた田舎道を車で走りながら、ふと昔のことを思い出した。

子どもの頃。
小学5年生か6年生くらいだったろうか。
田舎の小学校に通う僕は、家まで一直線に帰ることは少なかった。
平々凡々な毎日の帰り道をいかに刺激的にできるか。
小学生の僕たちは、そんなことばかり考えていたのかもしれない。
だから、学校から家までの間にある川や林を、
遠回りだと分かっているけれど、敢えて通って帰ることが多かった。

そんなある日。
弟から、林の中に白骨死体があると聞いた。
実際に行ってみると、林道から少し離れた場所、
草や岩に隠れた位置に白いものが見えた。
それは、確かに、人間の頭蓋骨、シャレコウベに見えた。
友人たちも、僕も弟も妹も、その頭蓋骨には近づかなかった。
それでも、僕たちは連日のように、その頭蓋骨を見に行った。
誰も近づかず、石を投げてみたり、棒切れを投げてみたりした。
頭蓋骨に当たって向きが変われば、全体像が見えるかもしれない。
そんな期待を抱きながら、僕らは物を投げ続けた。
しばらくすると飽きて帰ることが多かった。
時には、誰か一人が急に怖くなって「わーっ」と言いながら逃げ出し、
恐怖が伝染して皆が一斉に叫びながら逃げ出すということもあった。
そうやって日々頭蓋骨のもとへ通い詰めながらも、
僕らは誰一人として頭蓋骨には近づかなかった。
そこには、なんとも言えない怖さがあった。


その怖さの正体を、僕は今さらながらに考えてみた。
もう20年以上も前の話だが、だからこそ当時の自分の気持ちが分かる気がする。
僕たちは、いや、少なくとも僕は、
本物の頭蓋骨を間近で見ることに恐怖していた。
これは紛れもない事実だ。
だけど、それ以上に、
「その頭蓋骨は、実は単なる石だった」
という現実を突きつけられることの方が怖かったんじゃないだろうか。
それが頭蓋骨だと信じて通う日々は刺激的だった。
平凡に倦んだ僕の心は、その刺激の虜になっていたのだ。
だから、その刺激のもとである頭蓋骨が、
実は単なる石であることを知りたくなかったんだろう。
あの時、恐らく誰もが、半信半疑よりは信じる方に近い側にいたけれど、
それでも、怖さに似た「疑い」を多かれ少なかれ持っていたと思う。
だから、途中からは近づくことが何となくタブーになっていた気がする。
ある意味で、あの頭蓋骨は僕たち皆の財産だったのだ。


僕の中での頭蓋骨ブームは、あっさりと終わりを告げた。
きっかけは、妹が父親に頭蓋骨の話をしたことだった。
妹は、小学校低学年なりの無邪気さで、
頭蓋骨の話を聞いた父親が面白がってくれたり、
怖がってくれたり、そういう反応を期待していたのだと思う。
ところが、林の中に頭蓋骨があるという話を聞いた父親は真剣な顔で、
「それはどこだ」「それは本当か」「それが本当なら警察に連絡しなければ」
というようなことを言った。
子どものファンタジー的な楽しみを解さない父親の顔と声に、
妹の顔がこわばっていたことを覚えている。
「警察」という言葉があまりに現実的で空々しかった。
僕たちの頭蓋骨は、警察が調べるようなものじゃなかったのだ。
石や棒切れを投げて、本物かどうかを手探りする。
投げたものが当たって頭蓋骨の向きが少し変わる、それだけで皆が息を飲む。
そういう類のものだったのだ。
近づいて調べるなんてことはしてはいけないものだった。
そして僕は、大人である父の冷静で冷酷な言葉を聞きながら、
なぜだか、あの頭蓋骨が単なる石であることを確信したのだった。
それ以来、頭蓋骨の場所へは行かなかった。