お疲れさまです。
決められたことを綴るのは、うんざりしているくせに「♯やってみたい職業」というタグに指が反応したではないか
何かの適合テストで、あなたが就くべき仕事BEST3が言い渡され、その結果が忘れられない。
第1位 探偵事務所
第2位 放射線技師
第3位 結婚詐欺師
テスト内容は、基礎問題他、心理テストなどが出題されたのだが、実に魅力的なラインナップに、1,3位などいつか天涯孤独になったら目指してみたい気ぃする職業であった。
幼少期、AB型一人っこの私は、リカちゃんやバービーなど多国籍になりすましては、多様な職業につき世界を股にかけて男性をたぶらかしていた。結構向いておるのかもしれん。妄想ばかりで実体験値が圧倒的にたりひんのだが。
わりと堅気の仕事をしているつもりなのに、ふわふわと地に足がついていなさそうと言われる。休日、庭仕事中に近所の方らしきおばあさんに話しかけられ、ほぼ初めて話したのに作業をしながら、2時間近くも門扉前で普通に話していたり、人たらしでまぁまぁ話上手ではある、たぶん。
探偵員にいかがだろうか・・・と、もし探偵になっていたら妄想をして遊んでいる。でっという「やってみたい仕事」の話を終わります。
屋根の下で眠るもの
先日実家に帰り、1泊2日入院を終えた母と食事をしていた際に、どんな流れだったか失念しておるのだが、
「へぇ~、それは「太郎の屋根に雪ふりつむ」やね」
と私が言うたところ、
「なん、それ」
と母は言うた。
国語の教科書にも記載されている三好達治の「雪」という詩である。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
「あるねん、そんな詩が。しんしんと雪が降る中、太郎と次郎がそれぞれの家で眠っている、ていうの」
と、説明すると
「・・・犬の話」
と母は言うた。
犬なわけあるかっそりゃ南極にも雪は降るけど、犬なわけあるかっ
余りの衝撃に、どんな話の流れであったか忘れてしまったのもむべなるかなだ
「タローとジロー=【南極物語】の犬の名」という、一定以上の年齢の方にとっては拭い去りがたく植え付けられた常識の根深さに驚いたが、我が母の詩情のなさにそれ以上の驚きを禁じ得ない。
せやけど、よくよく考えてみるに、三好先生は単に「屋根」と言うておるのであり、それが犬小屋の屋根ではない証拠はない。犬小屋が埋もれるほどの豪雪地帯を勝手にイメージしていたが、私のそのイメージこそが誤りだったのかもしれない。
ちょっと試しに、この詩に登場する太郎と次郎を犬であると仮定して、情景を想像してみた。
すると、別に問題ないではにゃいか静かな幸福感と、薄い寂しさは、屋根の下で眠るのが人であっても犬であっても、なんら損なわれる点がないように私には感じられる。なるほど、これこそが、この短い詩の持つ揺るぎない魂なのであり、言葉の力なのだと、改めて三好先生の凄さを思い知った。
更に試しに、太郎と次郎を様々なものだと仮定して、情景を想像してみた。私が好きな順に、キリン、シカ、アルパカ、実家の庭の祖父の形見の盆栽(太郎松、次郎松と名付けられていた)などなど。
いける、いけるではにゃいかおよそ睡眠をとりそうな生き物、いや生き物ちごてもいい。人間が共感と愛情を持ち相対することのできるものならば、なんでもこの詩の中の太郎と次郎になれることが判明した。
たとえば、車をとても大切にしている方にとっては、太郎と次郎と名のついた車だと仮定しても、この詩が喚起する情景は有効だろう、たぶん。その場合、「太郎の屋根」とは車庫の屋根なのである。無機質すらも受け入れる懐の深さ。凄いな三好達治
私が唯一、んーと感じたのは、太郎と次郎が恐竜だったらと仮定した場合だ。
恐竜は屋根の下で眠るにはデカすぎなうえに、私自身が恐竜に対しそんな思い入れがないためのようだ。つまり、ひとえに想像力と恐竜への愛情が不足しているのが原因で、「こんなじゃあかん」と反省した。幸福な寂しさのなか、犬たちは静かに眠っている。
想像することの大切さ
また先日帰省した話で恐縮なのだが、父がリビングのテーブルで一心不乱にグレープフルーツの皮を剥いていた。
父は、仕事以外のことは結構ズボラな方なのだが果物の皮に関しては違う。桃やりんごもやけに几帳面に皮を剥く。柿を剥く速度と確実さに至っては、もはやプロとしか思えぬ手際の良さを見せる。
グレープフルーツを剥く父も、やはり真剣な表情であった。ひと房剥いては食べ、というようなことはしない。全部剥いてから己の作業に満足しつつ一気に食べたい派らしい。ひと房ひと房甘皮を丁寧にむきとり、裸になった果実を積み上げている。
「また、つんでおるな」と思い、父を観察していた私は妙なことに気づいた。父はグレープフルーツの房を剥きながら「ひーひー」と絶え間なく言っているのだ。ささくれにグレープフルーツの汁が染みてたまらんといった感じの声だ。
「どうしたん?どっかケガでもしてるん」
と問うても作業に夢中な父は明確な返事をよこさない。ただ「ひーひー」と言いながら黙々と手を動かし続けるのみである。
私は心配になってきた。よっぽどささくれが痛むのに、父は我慢しているのではないか。だが、「私が向こうか」と持ちかけても、父は「ええから
」の一点張りだ。
何を意地になっているんだろう。推移を見守っていると、全て剥き終わった父は、山盛りになった果実を嬉しそうに次々に口に放り込み始めた。
「あのさ、父さん」
と私が話しかけると、父はやっと周囲の声に耳を傾ける余裕ができたのか
「やらへんぞ。これは父さんが剥いたんだから」
というた。
「いや、そうやなくて。なんで皮を剥きながらひーひー言うてたの?」
「そんなん言うてたか」
「いい散らかしてたよ」
父はもぐもぐとグレープフルーツを咀嚼しながら、
「多分、すっぱそうやったからやな、柑橘類を見るとな、ひーっなんねん」
と言うた。
「グレープフルーツだけやなくて」
「甘夏でもイヨカンでもオレンジでもそうやで。剥く時にいつも ひーっ思っている」
「思っているだけやなくて、実際に声に出てたよ。でも今は全然すっぱそうやなくてパクパク食べてんなぁ」
「食べると、想像していたほどのすっぱさやないねんな、これが」
何十年も親子をやっていて全く気付かなかったが、父はどうやら柑橘類の皮を剥く時は必ず、ひーひーと言っていたようなのだ。そして、その理由は「想像の酸っぱさ」に身悶えせずにいられないから、らしいのだ。
度を越した「すっぱさへの杞憂」ぶりにアホやないかと思う。しかし、父は酸っぱさを想像してひーひー言いながら皮をむいている時の方が、いざ果物を口にした時よりも、なんだか楽しそうだった。日常を刺激的にするのは想像力なのだな、と思い知らされた話を終わります。
庭活と墓参り
父の田舎の鹿児島では、毎日お墓を参る習慣があったけれど、姑の墓参りは月1。殺人ライセンスだが老後に備え、霊園まで運転したが幹線道路から霊園敷地へ左折できず、最寄りのスーパーで無理やり買い物をして駐車し霊園まで歩いた(約5分)私にとって、車はそんな便利やない。
無理やり買った苺を数分だけお供えして、帰宅後仏壇に供えた。お墓でも蝶々を見かけたが、自宅の庭でも同じ色のを見た。殺人ライセンスの私が気がかりで自宅まで付いてみえたのかなだとかね、心が苔むしてるけど蝶々の逸話はわりと信じている。というか、亡き大切な人が蝶々になって自由に行きたい場所へ行けているといいなと思う。
やたら日あたりのいい場所にあった葡萄の木とユーカリを伐根した後、腐葉土作りスペースにしていたけど、突き当りにお花があるといいなと思い、強健と名高いスーパーサルビアロックンロールを植栽してみた。上手くいけば1メートル四方に育つらしいから、並べたらあかんのかもしれないけど、1つじゃ寂しいかなと2つにしてみた。陽ざしガンガン、雨にもガンガンなのだが梅雨を乗り越え、ロックに育ってくれますように
休日は、仕事の日より早く起きて庭にでているガーデニング2年生。とうとう、ガーデナーサロペットなる専用の戦闘服まで買ってしまった。色ちで2枚。ポケットいっぱいで便利
ほんまは白が好きだけど、和風の庭なので紫色がええかなと買っていたのだが、いつのまにか紫というか青系のお花も好きになっていた。アンゲロニアも日日草も酷暑の中、美しく咲き続けてくれたので今年も共に酷暑を乗り越えよ。
3年前まで1ミリも興味がなかったコメリを、休日の朝から訪れ季節の花苗を物色しては、お気に入りを購入するというルーティーンが至福これまで数えきれぬ程の趣味にハマり、飽きてきたけれど、どの趣味よりも遥かにコスパがよくて、楽しいが続く
300円位の苗を2000円分位買っただけで、仕事頑張んぞ
と謎に漲る。足しげく通い、季節の花を物色する様をコメパトというらしい。幸せだ
コメパト。
午後は、梅雨対策のマルチング作業に勤しんでみる。今日は一日土を弄り、明日から東京出張という高低差だが、買い物も楽しい隙あらば帽子屋さんで物色しよ。
自分勝手なブログに、最後までお付き合いくださりありがとうございました。ほなまた、いつかまで