お疲れ様です。

 

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副交感神経が働き者になる期だからか、更年期障害的な症状なのか知らんけど、やたら頭痛がすると話したら、「全力ラジオ体操」がいいと3名に言われたので先週の木曜日から始めてみた。当たり前だが、まだ1ミリの効果もない。自律神経を整えストレスを軽減するらしいが・・・効果を実感するような奇跡があれば、いつかまた記録したい。ストレスのかからぬ場所などこの世にないと思っているヘドロのような私にも薄く効いてはほしい話でした。

 

日曜の空港で、既に3つ飲食店をハシゴしながらひたすら待機中。仕事などしてみても、全く捗らないので、無駄にUNIQLOで買い物をしてしまった。

 

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お気に入りの「エアリズムコットン オーバーサイズクルーネックT(五分袖)」を今年も3色買い足し、夫にも2着。諭吉1枚でTシャツが5枚買えるってまだまだ財布に優しい思うし、隙間家具体型にとって大袈裟やないオーバーサイズと首回りの詰まり加減がありがたい。

 

昨年の今頃、同じTシャツを4枚買った帰りの電車に紙袋を忘れるというボケカス失態をおかし、忘れ物センターに問い合わせた。数分後に折り返しがあり、はるか終点まで戸棚に乗せられたまま到着していることが判明し、翌日には最寄り駅で受け取ることができた。政治は、ほんまにどうかと思うけれど、日本はいい国だと思う時ってあんな時。

 

最弱の礼儀

 

某月某日。「ボウリング最弱王決戦」に挑むべく、某Rボウリング場に6人の猛者が集結した。「ボウ」ばかり、ボウリングのボウも含め恐縮だあせる

 

なぜボウリングの弱さを競うことになったかというと、子供じみた意地の張り合いが発端だった。何かの打ち上げの席でボウリングの話になり、「ボウリングをしたのは生まれてこの方1度きり」「ストライクなど出したことがない」「自己ベストスコアが20台」などどダメさを披歴しあい、互いに引っ込みがつかなくなったのである。

 

それぞれが打ち上げから1か月程イメトレを重ね、満を持して開催された「最弱王決戦」は、史上稀にみる低レベルな戦いだった。結果、最弱王の称号を獲得したのは、まんまと私。ちなみにスコアは58。ストライクどころかスペアもカスリもしなかったもやもや

 

強いて、「よかったこと」を探すと、「最弱王決戦」なので、うまくやろうという圧から解き放たれ、それぞれが大変のびのびと戦いに挑めた点であろうか。

 

コスモス「フェイントペンギン戦法」→ラインまでちょこまかペンギン走りをし、なぜか玉を転がす寸前に完全に静止して助走の意味を無にする戦法。

 

コスモス「球速重視戦法」

 

など、様々な技法はてなマークが編み出された。

 

勿論、猛者たちは皆、至極真剣にストライクを狙いにいっているのである。人間心理とは不思議なもので、「負け、すなわち勝利」な戦いにもかかわらず、ゲームに熱中するにつれ、ハイスコアを出したくなってくるのだ。

 

昨今では運動会などでも順位をつけない、ケースもあるが、それは負けん気や向上心の芽を摘むような、大袈裟に言えば人間の本能と矛盾するシステムである気ぃもする。そこで、いっそのこと「最弱」を競えばいいのではないかと思いついた。

 

「かけっこ最弱王」「成績最弱王」などに輝いた者を、周囲が本気で称え祝福する。最弱王としては、かなり悔しい。次こそは「2番目に弱い」ぐらいを目指してもええかな、という気持ちにもなろう、だぶん。「最強」は目指すほどの実力も精神力もない者にとって、「最弱王の座だけはなんとしても回避したい」というのは、そんなに圧がかからず、さりとて自堕落になり過ぎることもない、ちょうどええ目標値である。

 

熱き戦いを終え、初代ボウリング最弱王と5名の臣下はコメダで慰労会を行った。「さすが最弱王。実力と握力のなさがずば抜けていた」と臣下らに持ち上げられた私は、「王座がよもやこんなにも居心地の悪いものであったとは」と、モヤモヤを噛みしめながら、勝利のアイスコーヒーを飲み干したのだった。

 

次なる「最弱王決戦」へ向け、6人の猛者の意欲は高まるばかりだ。種目候補として、「ダーツ」「ビリヤード」、そしてなぜか「デッサン」が挙がっておる。画力対決とはまた、凄まじい戦いになる予感がしておる。しかし、日常のそれぞれの雑務に追われ開催日は先送りになるのだろうから、イメトレに黙々と勤しもう、という話を終わります。

 

従姉妹との縁
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父方の従姉妹が、家業を継ぎ仕出し弁当店を営んでいる。大学進学で上京し、横浜で就職後結婚もして賃貸から分譲に越した頃、伯父が突然クモ膜下出血で他界した。その葬儀の挨拶で、「私が帰って家業を継ぎますから、不束者ですがよろしくお願いします。」と、伯母に何も告げずに宣言をした姿が忘れられない。

 

その後、すぐに夫婦共に退職し、配達や仕込みなどの下働きから始めた。それから12年後伯母が他界し、従姉妹の代になり6年目。小さな町なので厳しい声がすぐに届いたり、大手スーパーが進出したり、悩み多き日々や思うけれど、年に数回「母のと食べ比べて」と荷物が届く。

 

5月の節句に食べる「あくまき」便に、さつま揚げをいれてくれていたけど、「かまぼこが好きだから」と追加便が来た。傷みやすいので、冬限定でしか作らないのに、わざわざこさえてくれたのだろうか・・・「このかけ醤油も好きだったよね」と、私が知る醤油の中で最も甘い懐かしい醤油が入っていた。田舎に帰省すると、醤油なのになぜこんなに甘いのかと、小皿をペロペロしていた幼少期の姿を忘れないでいてくれているらしい。できれば、それは忘れてほしいタラー

 

3姉妹の末娘なのに、旅行代理店を退職して実家へ帰るという決断をした彼女を心から尊敬している。もし、どちらかが亡くなった時、私はそんな決断ができるのかな。一人っこなのにすぐにはできないんちゃうのかな。同じよう立派にできなくても、こちらも着々とイメトレはしておきたい話を終わります。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ほなまた、いつかまであじさい