お疲れ様です。

 

こもることなき雨音が部屋の内にこもっている。仕事に行かなくていい日の雨は、嫌いやない。買い物はネットスーパーで済ませ、2時間後に届くらしい。便利な世である。私が本格的に買い物に行けなくなる頃は一体どこまで便利な世になっていて、幾らかかるのかはてなマーク

 

以前、姑が介護サービスを利用されながら、「便利だけど、ゴミ出し、お遣い。どんな些細なこともお金がかかる。」と、怪訝顔で仰っていたけれど、あの呟きがだんだん重く圧し掛かる頃になってきた。そして、どうせ当たるわけがないと思いつつ、皆勤賞で夢のくじを買うねんな・・・買わないと当たらないからと。

 

どなたかの結婚式で、「こんな素晴らしい伴侶と出逢い、結ばれたお二人は宝くじの1等以上の幸せでしょう。」だとか、センスのない祝辞を述べられていたが、いやいやいやいやあせるいやいやいやいやあせる1等の幸せ切望クローバー

 

今日は、まず先日の引っ越しの宴でヒヨコちゃん宅の廃棄処分エリアから発掘してきた漫画の感想を記録してみる。1ミリも内容を知らない方に、どれどれ読んでみようかなチューリップピンクとうっかり思わせてしまうような感想文をね、綴れる人になりたい所存である。

 

「知っている」ということ

 

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世界の秘密はいつ知りましたか?私は小学校五年の時だった。それまでは中途半端な性教育のおかげで、尿を飲むと子供ができるのだと思っていた。さらに前には父親によって、ウン〇と共に産み落とされたのだと堅く信じていた。世界は複雑で謎に満ちていたのだ。

 

真実を知ったとき、私の中ですべてが結び付いた。喧嘩をしていた猫。プールの水面すれすれを飛んでいた新種のトンボ。電線で戯れていた鳥。彼らは喧嘩をしていたのでも、新種でも戯れていたのでもなかった。

 

ついに答えに辿り着いた。草原を覆っていた霧が晴れ、あちこちでお花が咲いている黄色い花。私は拍子抜けしたような気分で、晴れ晴れとした胸の内をくまなく見渡した。

 

この突き抜けた爽快感たるやガム疑惑以来だった。「ガムを飲み込むと心臓にひっつくからやめなさい」と祖母に言われ、仕来りのように紙に出していたのだ。だが、ある日、人体の仕組み上どないしたって心臓にひっつくわけがないことに気がついた。

 

容易くだまされていた自分に憤り、再びガムは飲み込むことにしたという次第だが、真実というものはいつもあっけなく世界を単純化する。今や私の世界の単純化はかなり進んでしまった。真実というか、残酷な現実とかに直面し、やってらんないので、生きやすいように自分に合わせてすべてを簡単にしていったからだ。

 

夏目礼智(ライチ)は、こういう妄想には逃げない。想像力を持って自分を取り巻くものに対処しようとする。想像と妄想の違いは、自分の知らない世界への広がりがあるかないかだ。

 

『ぼくだけが知っている』は、世界がまだ複雑さを残している年頃の子どもたちの話だ。主人公ライチは小学四年生。地球密着型の感性を持った彼は雷を愛し、地震を予知する。

 

彼は「本当のことを知っている」という意味で大人だった。しかし、「知っている」のが自分だけであるとき、それは「無」に等しいということを、まだ知らない程度には子供だった。

 

思慮深い委員長の今林君は、ライチが何かを「知っている」ことに気付いている。逆にヤンチャ子供タイプの鈴木哉は、ライチが「知っている」という事実に気付かない、もしくは、気づきたくないから知らん顔をしている。知らん顔をして気に入らなかったら誰でも殴り、恐怖を感じても殴り、とにかくいつでも腕っ節で解決する。哉は知ろうとする気がない。

 

私が並外れて知らずにいたのは、「バカ」という言葉だった。幼稚園に行ってしばらくするまで、私の世界には「バカ」という現象だか、事実は存在しなかった。だから、出来立て友達が、ふとした拍子に「やーい、バカ」とかなんとかはやしたてた時、私は真面目に聞いたのだ。「バカって何?」と。

 

彼らは最初、私にからかわれているのだと思い、私が本当にその言葉を知らないのだと納得すると、今度は世の中で一番「バカ」な者を前にした無力さを味わったのだった。「バカ」がどういうことなのか、「バカ」という言葉を知らない者に説明するのは難儀である。ましてや、幼稚園児となれば至難の業であろう「バカはバカだよタラー」と、説明しあぐねている彼らを見て、ふーん、あまりいい意味の言葉ではないらしいと悟った。「知らない」ということが暴力的なまでに強い時もあるのだ。

 

さて、ライチは何を知っているのでしょう?それがこの漫画の真骨頂であるわけだが、内緒にする。ほぉ~ら読んでみたくなぁるピンク音符ならんか知らんぷり別に、念のため子供の作り方とかではない。

 

ライチは自分とそっくりな子に出逢い、「知っている」がゆえに、その友人によって激しく死へ誘われる。その事態にライチがどう解答するのかが一番のクライマックスである。作者は、わりと繰り返し「双子」のモチーフを描かれてきた。片方は去り、もう片方は残される。だが、この漫画でライチは残されるのではなく、残ることを選ぶ。知ることによって生じる虚無。それを乗り越える強さを見せるのだ。それまでの作品との何気ないけど決定的なこの変化が、この物語を特に好きやと思った理由である。

 

自分だけが知っていることも、自分だけが知らずにいることも、そうあるものではないのだと悟った時が、大人になる時なのだ、たぶん。頑張れ主人公びっくりマークもうちょいだ、たぶん。

 

ついでに下書きにあった「ブレードランナー」

 

通勤時間は小一時間、出社後も外回りや出張で移動が多いので、本に飽きるとタブレットにダウンロードした映画やドラマを観る。新しいものを観ることもあれば、何度も観るものもある。雨が降っていた新幹線移動日、久しぶりに忘れられない映画を観た。

 

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「ブレードランナー」は、ルトガー・ハウアーと出逢った忘れられない想い出の作品である。1982年に制作されたこれを、初めて観たのは中1の夏。この作品のハリソン・フォードではなく、レプリカント役の人に魂を抜かれた。当時の日記は、ほぼ彼のことで埋め尽くされており我ながらひく。

 

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プラチナブロンドに凍えた青色の瞳、ややⅯ字ハゲなのも素敵で、スパッツ一丁でハリソンフォードを追いかける。洒落たあん畜生である。 B級映画の帝王、『狂人、マニア向け、少年好き(の役が多い)』と、三拍子揃った異才。どの出演作を観るにつけても、自分自身の心の寛容さと『ルドガーへの愛』とを試される。まるで宗教的試練みたいに崇高な映画体験。

 

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その上、「ブレードランナー」から幾年月。ルトガーも寄る年波には勝てず、「体重増加、М字じりじり後退、歯抜け」という三重苦に。さらに激しく愛を試される私。せやけど、ちっともへこたれない。ルドガーへの想いは深く静かに持続しているのだった。

 

これが愛し合って一緒になった夫婦ってものなのかはてなマーク年齢とか外見の変化とか、私にとっては些細なことだ。ただ、ルトガーがスクリーン上で細々と活躍している。それだけでいい。愛の力は偉大だ。この世を去られた後も変わっていない。

 

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私は、差ほどミーハーなわけではない。若かりし頃、祇園でほろ酔い加減の大江〇三郎目撃した時も、電車を待つ松岡〇造を発見したときも、「あっ乙女のトキメキ」と思うにとどめた。しかし、ルトガーに街で遭遇したらと思うと、途端に冷静ではいられなくなる。一度など健康診断で血圧を測っている時に、「街でルトガーを発見したらどうなるかはてなマーク」を考えてしまい、保健婦さんに、「そんな緊張しなくてええのよ」と宥められた。「すみません汗緊張したんじゃなくて興奮してしまったんです。」

 

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さて、遅ればせながら汗観ていない方のために、「ブレードランナー」のあらすじを簡単に説明してみる。酸性雨ばっかり降っている未来の街(2020年)が舞台。ある日、屋台でうどんを食べていたデッカード(ハリソン・フォード)は、人間そっくりの外見を持つ脱走した高性能レプリカントを捕まえて殺せ、と指令を受ける。かくしてデッカードとレプリカントらとの死闘が始まるのであった。以上、あらすじ終わりキメてる

 

度肝抜くストーリー展開など1ミリもない。「ブレードランナー」はとにかく変な映画で、ハリソン・フォードは主人公のくせに、結局女性のレプリカントしか殺せない。ヒーローが女性しか殺さない映画。なんともパリッとしない。

 

しかも、男のレプリカントにガンガン痛めつけられて殺されかけるところを、ヒロイン(レイチェル)に助けられるという不甲斐なさ。そんな情けない男のくせに、レイチェルの前では妙に偉そうなのである。「キスしてって言え」だとはてなマーク何様やねん。だが、かっこいいシーンだから許す。

 

その後、「ブレードランナー」の世界観が、様々な表現に影響を与えたのはいうまでもない。一連のアンドロイドものの漫画を、私も好んで読みました。『龍の眠る星』とか「オズ』とか。

 

だが、だんだん「ブレードランナー」に一番近い世界観を持った漫画って意外にも「ドラえもん」ちゃうはてなマークと思うようになった。ほら、アンドロイドものだし。「違うびっくりマーク「ドラえもん」は猫型ロボットであって、アンドロイドと言うものとは違うびっくりマーク」というお叱りを受けそうだが。まぁええではないか。同じ「ロボットもの」ということで。それでも納得できなければ、出木杉君がアンドロイドだったということで、ひとつ。

 

というのも、昨夜ドラえもんの夢をみたせい。緑が濃く生い茂る廃墟となった建物で遊びながら、ドラえもんはのび太やジャイアンやしずかちゃんの遠い子孫たちに、初めてのび太の元へ来た頃の話を聞かせている。スネ夫の子孫がいないことに対し私は、「あぁ、あいつ、生き延びれなかったんだな。」と冷静に思った。どうやら夢の中で、ドラえもんらは大きな危機を潜り抜けたらしい。ドラえもんはいつだってどこか寂しい。

 

真顔以前みた違う夢では、私だけボロのタケコプターしか貸してもらえず、他メンが優雅に浮遊する最後尾で、必死にエア自転車漕ぎをして追走する夢だったが、此度の夢には私はいなかった。

 

「ブレードランナー」のラストの青空。その小さな心細い雲の切れ間は一瞬後には閉ざされて、街にはまた酸性雨が降り注ぐだろう。のび太達が土管のある空き地で昨日と同じように遊ぶ時、そこには常に青ざめたロボットがいる。硬直した日常と破壊への種を内包した日常。二つは、実は同じものなのだ。それでも私は、その無力感と恐怖を希望と救済で上塗りしたような物語が好きだ。ルトガー・ハウアーがビルの谷間から力強くハリソン・フォードを引っ張り上げたように。とても細い光が雨に濡れた空き地の土管に射しておる。

 

化けて出たいという呪い

 

終電から逆算して職場を出た。追われていると気付いたときのジェイソンボーンなみにかきわけて歩き、すみませんあせるごめんなすってあせる乗りまーすあせると滑り込んだエレベーターの中が、もうはちきれんばかりの男女抱擁だった。

 

ラブコメなら最終回。戦争映画なら終戦。金八なら卒業。そんな取り組み抱擁中に、木村庄之助(行司)ほどの距離感で居合わせてしまい薄く地獄で、鬼は三途の川などではなく、軽くこの辺で石を積ませるつもりかと過信した。

 

「だめよ、だめよ。見られちゃうから。」と、声を押し殺した感じでいったとて、あんな密室において完全にそんな指令など、こちらにも余裕で届くわけである。

 

もうね、こちら側としては、絶対にびっくりマーク死んでも見ないわけ。エレベーターの隅の角に顔面をめり込ませるようにして立ち、暗証番号を打ち込んでもらう際の店員くらいの見なさなわけ。

 

「だめだって」

「見てないよ」

「見てるってば」

「見てないよ」

「ほんと?」

「大丈夫、見てないよ」

「でも、見ちゃうかもしれないし」

「見えないよ」

「えー、でも」

 

う・ら・め・し・やむかっもう、生前であることとか全く関係がない。何度も心で呪い思わず口をついて出そうになった。生きながらにして化けて出れるくらいの無念ガックリ化けてでるというか、もうあらかじめ既にいるけれど、あえて1度化けたい、1度化けてから出たい。今なら私汗あの井戸を登りきり、ブラウン管から飛びだせる気がする。

 

すると、2個下のフロアから見知らぬ中年男性が乗ってみえた。何ていえばええのかオーナメント地上に舞い降りたエンジェルハートのバルーンとは、もしやこの方やないのはてなマークと心から歓迎した。

 

これでやっと試合になる。待ちに待った2対2。混合ダブルス。こうなれば、多少広めにスペースを取り、まぁ相手を見る。どこを見ようが自由なわけだから。

 

男性も、露骨にジロジロ抉るように見て、けしからんなあせる顔をされていた。私もしれっと、公共の場所ですよ視線目を送ってみた。なのに、まさかの次のフロアで降りるとは、なんという裏切りガックリ階段つかえ、ぬか喜びさせんなもやもや

 

どうするんはてなマークこの感じ。変にスペースを取ったせいで3人でパヒュームみたいな配置になってしまった。ちかい汗ずっと抱擁しながら、女性が朝顔でも観察してるんじゃないのかって程にこちらを見てくる。既に発芽しきっておるというのにだ。

 

そんな手持ち無沙汰地獄に着信があり、藁をもつかむ思いで鞄を弄る。焦る、焦るあせるバックinバックで整理整頓しているはずなのに、米とぎくらい弄ってやっと確保。なのにiPhoneが鮎掴みどりのときのように滑った。ツルツルガラスの床に落ちた鮎は、勢いよく滑走し2人の甘い空間へ行った。カーリングの何とかさんとて、なかなかピタリと押さえられないほど中心というか、又と又の間に。

 

私は、一瞬の躊躇なく2歩前に行き、その中心からiPhoneを利き足で蹴りだし、そのまま出口に蹴りだすと、ほぼドンピシャでドアが開いたので、もう一度蹴って外に出た。

 

まさに、一瞬の判断。脳内にはこれが流れた。

 

 

『ほんのついさっき考えていたことがもう古くて 少しも抑えていらんないの

身体任せ 時を追い越せ 何より速く確かに今蹴って』

 

華麗な蹴りであったと思いたい。男女共に、「わぁーっあせる」いうたはったけれど。何だか生きながらにして、念願叶って薄く化けて出られた気ぃもした。そう自分勝手に満足して帰宅した話を終わります。

 

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数年ぶりにたわわに咲いたツツジを記念撮影。

 

今回も今週の下書きを編集しましたが、いつもに増してド長文になってしまいました。貴重なお時間にお付き合いくださり感謝申し上げます。ほなまた、いつかまであじさい