簡単なことです。

多くの人が「人を殺しちゃいけない」って思っているからです。


「なぜ ~ しちゃいけないのか」

とは、厳密には、

「なぜ ~ するべきではないと、社会的に言われているのか」

ということですね。

つまり、このテーマはこう言い替えられます。


「なぜ、人を殺すべきではないと、社会的に言われているのか」


「社会的に言われている」ことというのはどういう主張なのでしょうか。

「その社会に属する人々のほとんどの人が感じていること」が、その主張になりうるのです。


なので、「人を殺すべきではない」という主張も、「社会に属する人々のほとんどの人がそう感じている」から、社会的に言われているのです。



・・・という解答は実は、循環論に陥っています。A=Aといっているのと同じなのです。


「なぜ、人を殺すべきではないと、社会に属する人々のほとんどが感じているのか」というのが、意味のある議論です。


私は、人々が能動的に推論をして「人を殺すべきではない」と考える(感じる)に至ったとは思えません。

人は「人を殺すべきではない」と感じさせられている、というのが私の考えです。


そう考えさせられているのには、2つのメカニズムが考えられます。どっちも作用していると考えられます。

 (1)人という生物が、遺伝的にそう感じるようになっているから(プログラムされているから)。

 (2)そう感じるようになる環境にいるから。そしていたから。



人は(1)にしろ(2)にしろ、ほとんどの場合は「人を殺すべきではない」と感じるのです。

そう感じた人は、そう感じた理由を探ります。

しかしその理由は、究極的には見つけることはできないでしょう。

それは、「人を殺すべきではない」というのは推論によって作られた考えではなく、(1)内的および(2)外的に発生した考えだからだ、と私は考えたのです。


推論によって作られた考えは、「AだからB」というふうにBであることに(Aという)理由があります。

しかし、発生した考えの理由は、その人の中にはありえません。

つまり、「その考えが発生した原因」はあっても、「その考えに至った理由(根拠)」はないのです。


この私の考え方に立つと、

もし「人を殺しちゃいけない理由」があるように思えても、それは後から付け加えられたもの、ということになります(例:周りが悲しむから、いずれ自分に返ってくるから)。


 コメントはこちらhttp://ameblo.jp/amsterdaaam/entry-10027334149.html

私が思いついた「好き」・「愛」の定義は以下。


好き

好き」は、「特定の対象に対する肯定的な総合的評価に伴う、ポジティブな感情」。


例)音楽が「好き」なAさんを考えた場合(「特定の対象」=「音楽」)

  音楽はいいと感じた、もしくは感じている(=音楽に対する肯定的な総合的評価

     ↓

  そのことを感じると同時に伴う感情(=好き


」は、「好き」という感情に、「親しい」という認識が加わったもの。


例1)歌『君の瞳に恋してる』を初めて聴いたAさん

  ・Aさん「この歌、好き。」・・・○

  ・Aさん「この歌を愛している。」・・・×(愛しているとは言えない)


  Aさんはこの歌を始めて聴いたので、「いいな」とは感じたとしても、親しみを感じてはいないはずである(好き○・親しみ×)。

  だから、「好き」ではあるが「愛している」とは言えない。


例2)歌『君の瞳に恋してる』を毎日のように聞いているBさん

  ・Bさん「この歌、好き。」・・・○

  ・Bさん「この歌を愛している。」・・・○


  Bさんはこの歌が「好き」で、かつ、親しみを感じている例である(好き○・親しみ○)。

  したがって、「愛している」と言える。


■彼氏の好きと友達の好き

 上の定義は、対象が人の場合にも当てはまる。

 では、テーマの「彼氏の好きと友達の好きの違い」はどうなのだろうか。


 「彼氏の好き」は恋愛的感情、「友達の好き」は恋愛的でない感情


 ではないだろうか。

 では、「恋愛的感情」とは?


 わからない。恋愛的感情は、「恋愛のときに喚起される、恋愛に特徴的な感情」という意味で書いたのだが、これがどんな感情なのかを述べる術(すべ)を知らない。