簡単なことです。
多くの人が「人を殺しちゃいけない」って思っているからです。
「なぜ ~ しちゃいけないのか」
とは、厳密には、
「なぜ ~ するべきではないと、社会的に言われているのか」
ということですね。
つまり、このテーマはこう言い替えられます。
「なぜ、人を殺すべきではないと、社会的に言われているのか」
「社会的に言われている」ことというのはどういう主張なのでしょうか。
「その社会に属する人々のほとんどの人が感じていること」が、その主張になりうるのです。
なので、「人を殺すべきではない」という主張も、「社会に属する人々のほとんどの人がそう感じている」から、社会的に言われているのです。
・・・という解答は実は、循環論に陥っています。A=Aといっているのと同じなのです。
「なぜ、人を殺すべきではないと、社会に属する人々のほとんどが感じているのか」というのが、意味のある議論です。
私は、人々が能動的に推論をして「人を殺すべきではない」と考える(感じる)に至ったとは思えません。
人は「人を殺すべきではない」と感じさせられている、というのが私の考えです。
そう考えさせられているのには、2つのメカニズムが考えられます。どっちも作用していると考えられます。
(1)人という生物が、遺伝的にそう感じるようになっているから(プログラムされているから)。
(2)そう感じるようになる環境にいるから。そしていたから。
人は(1)にしろ(2)にしろ、ほとんどの場合は「人を殺すべきではない」と感じるのです。
そう感じた人は、そう感じた理由を探ります。
しかしその理由は、究極的には見つけることはできないでしょう。
それは、「人を殺すべきではない」というのは推論によって作られた考えではなく、(1)内的および(2)外的に発生した考えだからだ、と私は考えたのです。
推論によって作られた考えは、「AだからB」というふうにBであることに(Aという)理由があります。
しかし、発生した考えの理由は、その人の中にはありえません。
つまり、「その考えが発生した原因」はあっても、「その考えに至った理由(根拠)」はないのです。
この私の考え方に立つと、
もし「人を殺しちゃいけない理由」があるように思えても、それは後から付け加えられたもの、ということになります(例:周りが悲しむから、いずれ自分に返ってくるから)。