ルーツを知る必要性・・・・・・ | ☆ 建築士事務所主催者の想い ☆

ルーツを知る必要性・・・・・・

各種イベントには、色々なルーツがある事は知っていましたが、恵方巻については筆者も余り考えたことがありませんでした・・・・・・。  (数年前まで筆者もこの「恵方巻きを食べる」風習自体を知りませんでした。)


先日終わった「節分」のイベントにまつわる話です。 筆者も驚いたのですが、情報誌における研究家の調査によれば恵方巻の誕生は、江戸時代末期。 元々、大阪・船場の商人が、商売繁盛、無病息災、家内安全を願った行事が始まりなのだと記述されていました。


船場の花街、当時の「風俗街」では、節分になると遊女たちに巻寿司を丸かじりさせることが流行したそうです。 大商人たちは、太巻き寿司をナニに見立て、女たちがそれにかぶりつくさまを楽しんだと言いますから、まさにセクハラ ・・・・・。


研究家によれば恵方巻のルーツは、そんなセクハライベントだったそうです。 「巻き寿司を切らず一本丸ごと食べるのは『縁を切らない』という意味が込められている」 などともっともらしいことが言われるらしいのですが、その頃は、遊女が太巻きを頬張る姿を男たちが眺めていた行事に過ぎなかったというのですから、なんと言って良いやら言葉が見つかりません ・・・・。


しかし、時が経つにつれ不思議なことに「節分に遊女が太巻を丸かじりすると縁起が良い」と言われるようになり、願いごとが叶うというウワサが流布したのは事実だそうです。 次第に、大阪から関西圏へと広がっていったと言うのが専門家の調査結果だと締めくくられていました。


専門家の調査だからと言って、100%信じる必要は無いのでしょうけど・・・・




** 「参考」 上記 起源・発祥については諸説あるようですので、どれを信じても構わないのかも知れません。** (ウイキペディア「恵方巻」より抜粋・紹介しました。)


恵方巻の起源・発祥は諸説存在し、信憑性も定かではない。説としては以下のようなものがある。

江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとする説。


江戸時代末期から明治時代初期、大阪の商人(「船場の商人」とする資料も存在する)による商売繁盛の祈願事として始まったという説。起因として「厄落とし・縁起担ぎ」「船場にある階段の中段で女性が太巻きを丸かじりして願い事をした」「船場の旦那衆の遊び」が挙げられている。


1800年代のある年の節分の日に、大阪近郊の申村(現在の此花区伝法付近と比定)に住む老若男女が集まり、巻寿司を食す時に、切り分ける手間を省くために一本丸かぶりをしたというのを発祥とする説。


大正時代 - 戦前

大正時代初期に大阪の花街で、節分の時期に漬けあがる新香巻を使った海苔巻きを恵方に向かって食べる風習があった。


1932年(昭和7年)、大阪鮓商組合や海苔協会が海苔などの販売促進の目的で「節分の丸かぶり寿司」に関するチラシを配布し宣伝を行った。
1940年(昭和15年)、大阪鮓商組合後援会にて「節分の丸かぶり寿司」に関するチラシを発行した。当時の価格は1本20銭。


これらの要因から、大正時代から昭和時代初期には既に存在し、大阪の一部地域で定着して風習化された。そして寿司業界がそれを利用して、古くからの伝統であるという触れ込みで販売促進活動をした。


戦後の大阪における展開

戦後に一旦廃れたが、土用の丑の日に鰻を食べる習慣に対抗する販売促進手段として、1949年(昭和24年)に大阪鮓商組合が戦前に行われていた「節分の丸かぶり寿司」風習の復活を画策した。

1955年(昭和30年)頃、「元祖たこ昌」代表取締役・山路昌彦が当時行っていた海苔販売の促進活動の一環として恵方巻を考案。


昭和40年代前半には、大阪の海苔問屋協同組合とすし組合が連携し、行事普及活動の一環として飛行機をチャーターしてビラを撒いた。ただしこれは、経費過多により1回のみの実施に終わった。

1969年(昭和44年)に篠田統は著書『すしの本』(1970年(昭和45年)発行)で


「節分と巻きずし」
本日巻きずし有りという広告を見たが(中略)、おもに花街で行なわれ、新こうこうが漬かる時期なので、その香の物を芯に巻いたノリ巻を、切らずに全(まる)のまま、恵方のほうへ向いて食べる由。老浪華人の塩路吉兆老も今日まで知らたんだ。(中略)もちろん、私も初耳だ。普通の町家ではあまりやらないようだ。


篠田統『すしの本』

と記述しており、一般家庭ではあまり行われず、花街での事柄(芸者遊びの一つ)だと記されている。