イエスが私の前に現れて思ったのは、彼も、一人の人間だったのだということ。
好きな女性に愛されたくて悩んだり、上手くいかなくて落ち込んだり、ワインを飲みすぎて酔っ払ったり…。
決して聖人君子ではない、ごく普通のひとりの人間イエス。
この世に、きっと特別な人なんていない。言いかえるなら、人間一人一人が、特別な人なんだと思う。
「キリストは楽しいお兄さん♪」第11話〜イエスの秘密〜
その附近に小高い丘がいくつかあり、そのひとつは、イエスと弟子たちにとって瞑想と祈りの場であった。早朝、まだ陽が昇ったばかりの時間帯から祈りを捧げることも多かった。
イエスはユダを伴い、いつもの丘へと向かっていた。蒼い空は吸い込まれそうな深みをたたえ、まるで滑るように丸々とした雲が流れていく。澄んだ空気が丘を覆いつくし、自然がもたらす寛容な雄大さであふれていた。すべてが祝福されているかのように、夢幻泡影の美を映し出していた。
二人きりで過ごすのは、久しぶりのことである。
「このような日に瞑想するのは、どんなに気持ちが良いだろう」
夢見るように瞳を大きく見開きながら、ユダは思った。胸いっぱいに息を吸い込み、吸い込んだ空気を内側でやさしく浄化するかのように、ゆっくりと吐き出した。
「先生、ヨハネたちはまだなんですね。いつ頃、来るんでしょうか?」
「彼らは、今日は来ないよ。」
「何故ですか?」
「ここで、少し二人で話そう。」
草の上に師が腰を下ろし、向かい合うようにユダも座った。目と目が合った瞬間、ユダはすべてを悟った。
彼のまなざしは、この上ないやさしさで溢れていて、もはや逃げることは出来ないと思った。
「ユダ、愛してる」
「は、はい」
「私は、あなたが思うような女ではありません。私は…」
「穢らわしくて、醜い、そう思っているんだろう」
深く、ひとの内面を見抜く力があるイエスには隠し事が出来ないことを知っていたが、改めて指摘されるとユダの心が痛みに震えた。顔を伏せたまま、小さな声で呟くように言う。
「兵士たちに襲われてから、自分は汚れているとしか思えないのです。」
「そなたは、誰よりも純粋で美しい。
初めてそなたを見た時、おっちょこちょいの天使が、うっかり足を滑らせて地上に落っこちてきたのかと思った。」
おっちょこちょいは余計でしょう、と膨れたような表情がまるで少女のようで、イエスはそっと微笑んだ。
「ユダよ。私の母は、ローマ兵に凌辱されて私を身籠った。」
遠い思い出を手繰りよせるかのように、イエスの視線はじっと空を見つめている。ユダは、黙って彼の横顔を見つめていた。今まで閉ざされていた秘密の扉が、初めて開かれて行く瞬間だった。
「やさしい人だった。生まれてきた私を、理解ある夫と一緒に愛情込めて育ててくれた。」
「素晴らしい方なのですね、あなたのお母様は。」
イエスは視線を彼女の顔へと戻した。
「亡くなったよ。まだ幼い頃、家に再び兵士たちが襲ってきて、子どもを守ろうとした父親と一緒に殺された」
ひとすじの涙が頬を伝い流れていく。気づかないうちに、ユダは声もなく泣いていた。
なんてことだろう。
生まれた時から、なんて悲しい思いを目の前にいるこの人は味わってきたのだろう。
何故、自分はその時、まだこの世に生まれていなかったのだろう。彼と一緒に生まれていたなら、そして、そばにいられたなら、慰めて励ましてあげられたのに。
「私の母は、誰よりも素晴らしい人だった。
凌辱されて産まれた私は、穢らわしく醜い存在なのだろうか」
そっと片方の手を伸ばして、彼の赤味がかった髪にやさしく触れた。
「あなたを愛しています。」
ユダは、震えるような声でささやいた。
「マリア。」
一瞬、息が止まり、時も止まった。
マリア。マリア。マリア。
昔、彼女をそう優しく呼んだ人がいる。光をまとった風のなかで振り向く、壮快な笑顔の少年。その人こそ、今は亡き兄ユダであった。
「亡くなった母の名前は、マリアという」イエスは、じっと彼女を見つめた。
「数年前、双子の兄は、私を庇って亡くなりました。私の本当の名前は、マリアと言います。」
イエスは、ユダの体を引き寄せて胸に抱いた。
運命の輪が、抱きあう二人の周りを回り始めていた。邂逅は、無限の輪のように幾度も重なり合い、地上の花のように舞い散って行く。
同じような痛みをもった二人の傷。それは、魂に刻まれた見えない刻印となって互いを惹きつける強い磁力を持っていた。
もう離れられない。
大地と、空と、空気と、すべてが一体となり、遂に二人は結ばれた。
![ピンク薔薇](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/198.png)
![ピンク薔薇](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/198.png)
![天使](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/157.gif)