アムリタです。
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障がい児を育てるアムリタの本音が詰まったプロフィールを、ぜひお読みください
~前回のあらすじ~
誰かの役に立ちたいという、なぜか沸き上がる幼少期の想い出から、とんでもない過ちを起こしてしまった事件についてをお話させていただきました。
第②話は、長女気質の私が、人生において初めて大好きなものに出逢うお話しです🎵
お付き合いいただければ幸いです
ピアノとの出会い
先にもお話した通り、親の見守りなどなくても、親どうしで遊びに行くことを許可しあったりしなくても、近所ならどこのおうちにも自由に遊びに行くし、近所の子も来ます。
そもそも家の玄関もお勝手も鍵がかかっていなかったです
そんなゆったりとしていて、決まりごとの少ない時代に私は育ちました。
ご近所、斜め向かいのおうちにオルガンがありました。
そのおうちには男の子しか居なくて、私は図々しくも、そのおうちにしょっちゅうあがりこんではオルガンを弾いていたそうです。
そのおうちの奥さんが、あまりに私が楽しそうに弾いてるので、うちは男の子ばかりだしオルガンあげるわよ、というお話になり…なんと!!
私のおうちにオルガンがやってきました
それはそれは、とてつもなく嬉しかったです
だって、斜め向かいのおうちに行かなくても、大好きなオルガンが弾ける!!
毎日弾きました。
その姿を見て、両親は「ヤマハ音楽教室」に通わせてくれることになりました。
私、4歳。
「ヤマハ音楽教室」は、私の通う小学校すぐ近くの林の中、子供の足でも歩いて15分もかからないところにありました。
実はつい数年前に、この林の中で通り魔事件が起きたのですが、現在も変わらず小学校の隣には交番があり、そこまで危険な場所との認識はありませんでした。
ちょうど弟が産まれた年。
私は4歳から5歳になる頃でしたので、一人で「ヤマハ音楽教室」に通っていました。
授業の内容もきちんと把握出来ていたし、宿題もしっかり覚えて帰って来たので、ひたすら練習の日々。
宿題なんて気持ちもありません。
だって大好きなオルガンを、弾けるようになることを教えてくれるんですから
楽しくて仕方なかったです
毎年、ヤマハの発表会がありましたが、発表会のステージはピアノしかありません。
オルガンで練習していた私はピアノの鍵盤のタッチが分かりません。
単純に重い。指が慣れていない。
うまく弾けなくて悔しい思いをしていたのを察知して、両親は小学校の入学祝にアップライトのピアノを買ってくれました🎹
決して裕福ではなかった両親の愛を感じます✨
オルガンが初めて我が家にやって来た時の感動を遥かに越えた、ものすごい喜びでした
その代わり、学習机は買えないので、祖父が手作りしてくれました。
この学習机がまた、私にとっては大好きな祖父からのプレゼントとなり、勉強も頑張ろうという気持ちになったのです。
昭和の、決して裕福ではない家庭に育った私には、有り余る愛が注がれていたのだと、大人になるほど、しみじみと感じ入ることになりました。
この記事をお読みいただいてる方が、もしアラフィフ私(昭和47年生まれ)と同世代でしたら、あの昭和の「日本全体が貧しさから豊かさへ切り替わって行く」時代の空気を肌で感じませんでしたか?
私は、感じました。
なぜだかみな揃って、言葉にこそしませんでしたが、「豊かになるんだ!!」と同じ目標に向かっていたような、そんな時代の流れがあったのは事実だと思います。
一つ気がかりなことが
お話して来た通り、私は長女気質ガチガチで、迷惑もかけたくなければ両親の役に立ちたい一心の女の子でした。
ちょっと待って?
両親からそう教育されてきた気負いもないのに、ただ長女だからそんな風に思ったのでしょうか。
ここに脈々と受け継がれたものがあるのです。
これは私に始まったものではなく、私の両親それぞれが、そのまた両親から受け継いで来た価値観だったようです。
生まれながらに病弱で、農家の働き手にならないという理由て養子に出されそうだった父。
三人姉妹の長女で、父は(私の祖父)戦争から帰って来て、北海道の炭鉱で働くも閉山して千葉県へ移住。
父も母も、それぞれの両親の役に立ちたい、いや、役に立たなければならないという使命を、心のどこかで察知しながら生きて来たのかもしれません。
その想い、使命のようなものが、私の中にも流れていたような気がしています。
今なら客観的に観ることが出来ます。
ただ、当時はまだまだ分からないままに「誰かの役に立ちたい」とだけ沸き上がるように思っていました。
その沸き上がる程の想いがどこから出て来ているのかも知らず…。
次回は、思春期に突入したアムリタが、こともあろうか、クラシックとは真逆のものに目覚めるお話です
引き続き、お読みいただけると嬉しいです