小さな電車が「コト コト」とレールの端にたどり着く、私の町にはそんな「駅」があった。長い間この町の事しか知らなかったし、隣人や他人の暮らし振りには全く興味がなかった。家が裕福ではなかったので、比べて実感させられるのが嫌だったのかもしれない。時々、「父と母は」お金のことで喧嘩をしていたが、子供の私にとってとっても嫌な瞬間だった。 しかし、そんな父や母も今は亡き、家族の過ぎ去った「遠い日」の思い出でしかない。私は、この町が気に入っていたし、山と河の「豊かな顔」が好きだった。「いつの頃」だったか、そんな町を離れるとき・・・・新しい山や河はどんな「顔」で私を迎えてくれるのか「とっても」心配だった。今、豊かさを考えるとき・・・・あの町で暮らした家族の「時間」、山と河の「豊かな顔」。今でも、「きっと」そのままであってくれと!!  
 
都会だ田舎だと言いながら、私は「都会に住む人」の方が心情的にはローカルな気がする。 便利な都会を一歩でも出たら、もう暮らしていけないと思っている。いや、思い込もうとしているかもしれない。 他人との接触を求め、都会へ出ていった「若き日」、知らない人やモノに揉まれ、刺激というシャワーを一杯に浴びた「あの時」。それを、成長の糧だと教えられ、耐えがたい苦痛にも必死に耐えた。 しかし、ある程度の人生経験を積んだ人達にとって、「刺激」は心のストレス以外の何物でもないだろう。 今、田舎暮らしに興味を持つ人の多くが、社会おいて、企業倫理や道徳を説く立場にいる中高年であると言われているのも、そうした背景を物語っているのではないだろうか。「そんな気がする」。例えば、定年後に「余生」を田舎で過ごしたいと思っている人は少なくないだろう。 しかし、「今」を充実させる事こそが大切で、ただ単に老い先みじかい将来に夢を馳せるのは悲しい気がする。「物事」何をやるにしても、軌道に乗せるには時間がかかる。中高年からは 「一年、一年」、確実に体力は落ちるし、できれば、あまり年を取り過ぎないうちに実行するのも、悪くない選択だと思う。それに、田舎は企業社会の敗残者や、人生をリタイヤする「場所」ではないのだから。 そう、もうひとつの新しい人生をつくり出す「場所」。自分で生まれるところは選べない、 しかし、住むところは選べる。それが、「田舎であってもいいと思う」 。