おはようございまーす!
さこぴです
現在ナリ心理学&母親理論を勉強中
私自身の今までの人生がめっちゃくちゃだった
大きな原因「母親問題」
それをガチで解決しに行くべく基礎固めに取り組み中です
そんなわけで、リブログしたり
勉強したことをアウトプットしていますが、
私はナリ心理学の人ではないため
理解の浅さや間違ってることもあるし
そもそも質問や相談に答えられる立場ではないので
ご了承くださいませ
100%自分に目掛けてやっております!
今日は「可哀想な母」について
私の母ももれなく「可哀想な人」で「可哀想な人生」です
母の母に幼少期からけちょんけちょんに否定されて
職場も結婚相手も自分の母親(祖母)に決められて
結局祖母の介護見守り役になって、
祖母の弱者戦略攻撃を70年近く浴び続けた人生を送っている母
幼少時の私はそんな母を心底つまらなさそうと思っていて、
可哀想と強く強く同情をしていた
もちろん当時は無自覚だし、可哀想なんて思っちゃいけないと思ってた
母は「恵まれてる」「あんた(私の環境は)はマシ=うちはマシ」って言っていたから
自分の思った違和感みたいなものは
思っちゃいけないし、間違った感情なのかなあと思うしかなかった
加えて、母も私のことをけちょんけちょんに否定する人だったから
私は自分を守るためにも、母を守るためにも
母に同情して母を庇って物事を見なければいけなかった
幼少期からそういうことが、あらゆるところにあって
それをひたすら積み上げて行ったので
私の母への同情と罪悪感は鉄壁みたいに頑丈になってしまっていた
リブログ先にも書いてあった
母親の話す幸せは「不幸中の幸い」だってこと
私もまんまと母の言葉を信じちゃっていました
「ほんとに?」って思うことは何度もあったけど
でも、やっぱり子供としては
母親は幸せであってほしいって思いがあるし
そして、何より目の前の母親が可哀想
&自分自身も幸せや他の家庭を知らない
から、母親のいう幸せや、他よりうちの方がマシを
信じるしかないよね
なんたって、可哀想って思ってるんだもんね
私が思ってた「可哀想」は事実として言ってるんじゃなくて
完全に同情と感情論なだけだった
こんなに幸せなのに、
子供の私が生まれたのに、
恵まれているのに、
なんでお母さんはこんなにつまらなさそうなの?
なんか可哀想だあーっていうもの
実際は、別に我が家は幸せで溢れてなんかないし
母親は虐待親で犯罪者だし
私の環境が他の人(まともな親育ち)よりマシでもなんでもない
むしろ不幸一択
多分、母の言ってる恵まれてるは経済面のことだったんだろう
母も父もフルタイムの共働きで、
経済的な余裕が結構あったのは事実だから
私は母を「可哀想な人」って思いたくなくて大分足掻いたなあ
母親を庇うのをやめられなかったから、
庇った前提でしか物事を見れなくて
自分が悪いって言う思い込みも中々破れなかった
母を変えたくて、
お母さんの言ってることは幸せじゃないんだよ!
とか言い聞かせようとしたりもしたし
こう言うことしたら楽しいよ、幸せだよ
これ美味しいよ?これ面白いよ?
とかどんどん母に押し付けたりもしたし
「可哀想な母」の現実を作らないために、
自分がちゃんとしてる娘と世間に見られるために張り切ったり
私がダメだと母親がダメだと思われるのは避けなければいけない
自分の子供達を実家に連れて行ってみたり
孫の顔を見せてもらえないような母ってダメな親にしてはいけない
誕生日や母の日は欠かさずプレゼントしたり
誕生日も祝ってもらえないくらい親子の仲が悪いことにしてはいけない
表面的に「いい親子」を演出しようと頑張ってた
小文字はゴミ価値観ね
自分も幸せなんて知らないんだけど
(知らないことも知らないんだけど)
どこか子供って「母親は私の存在で笑顔になる」って思ってるのかもね
それを叶えたくて必死になるのかもなーって思った
もうね、一生懸命「可哀想な母」を否定しようとしてたんだけど
でもやってることって「お母さん可哀想」でしかない
お母さんって不幸で可哀想
だから私がなんとかしなきゃって言う、不幸扱いだったんだよね。。。
母親の背景理解を進めて、母親の人生を見つめてみて
可哀想な人生だった可哀想な人
と言うことはただの事実だし
実際私が母親のことを不幸だよね。。。と思ってるのも事実なんだけど
それでも、
お母さんには幸せに生きてほしい
私にとっては生みの親で、大切な存在の母に
幸せに生きてほしい
と思って
今まで自分の人生を犠牲にしてやってきたことが
全部無駄だって思いたくなくて
「可哀想な母」を認めるのが難しかったなあと思う
でも、
この可哀想な母は私のせいではなかった
私が生まれる前から、母は可哀想な人で可哀想な人生だった
そう言う可哀想で、不幸な人も
そのまま生きていていいんだ
可哀想だから、不幸だからって
私が自分の人生を犠牲にしてまで救おうとしなくていい
母は自ら好き好んで可哀想な人生や不幸な人生を生きているわけではないけど
でも、このまま死ぬまでずっと可哀想で不幸なまま
幸せが何か、楽しいって何かを知らないままでも
生きていていいんだ
母に同情したり庇ったり
母の望むような親子像を私が築く協力をしなくて
母が現状「子供から嫌われている母親」として存在していても
別にいいんだ
可哀想な人を可哀想な人のまま
この世界に存在させておいていい
それが私の中に、違和感なくスッと入ってくるようになって
「可哀想な母」の話がわかるようになってきたなあと思う
そしてやっと、
これからの母親との付き合い方も、私が選んで決めていいんだ
と、自然に思うことができるようにもなった
それは母親だけじゃなくて、周りの人たちも同じ
私はつい可哀想とかそう言う決めつけから行動を始めてしまうけど、
可哀想な人だとしても、その人の存在はそのままでいいし
別に可哀想扱いなんかしなくたっていい
実際可哀想と思ってるのもただの思い込みでしかなかったりする
何より私だって幸せ知らないんだし
そんな自分の偏った見方や関わり方をしていることに
自分で気付けることも増えて行っている今日この頃
今回リブログ先の記事を読んで、
私が母親に対して「可哀想」と思ってやってきたこと
母親を可哀想な現実にしないために自分がやってきたこと
が頭の中にモクモクと浮かび上がってきて
「そっか、こう言うことかー」ってハッとした、そんな出来事でした
ではまたー