おはようございまーす!
さこぴです![]()
ナリ心理学の「ダイヤモンド理論」について
勉強中
のアウトプットです!
(私はナリ心理学の人ではなく、勉強中の身です)
人間の存在価値はみーんな同じだから
みーんなダイヤモンド
機能価値は人それぞれ持ってるものがあるけど
ただの機能なだけで、
それでは人の価値は計れない
・・・けど、
ずーーーーっと機能価値で自分自身をジャッジしてきたし
周りの人のこともジャッジしまくってきたのが、私である!
リブログ先の記事も何度も何度も読んだし
ノートにも書いたんだけど
人を(まずは自分から)機能価値で計ることから離れなれず
死亡寸前まで追い込みまくって来ました
記事スクショ↓
↑スクショおしまい
機能価値で人の価値を決めるものだって思っていたから
地獄のデスロードをひた走って来ました![]()
私の場合は、
自分のできないところ、苦手なところ、凹みの部分を
どうにかして普通にするためのデスロードと
凹みの部分の機能価値で自分を計ることがやめられませんでした
ただ、まだ引っ張られることはある
私が思っている、機能の低い私は存在してはいけないと言う考え方
そして逆に発揮される、周りの人たちはすごい
(機能が高くて素晴らしい)という考え方
これがジャッジで、
視野の狭い差別なんだと言うことも
やっとこわかってきたところ
それくらい、機能のあるなしが人の価値を決めるものなんだ
と、私の中では当たり前すぎて疑えないくらいになってしまっていた
私が特に怯えていたのは、↑の「3」
このままの価値の低い私は、迫害されて、攻撃されて、見捨てられる![]()
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を本気で思っていたからでした
そのくらいガッチガチで思い込んできたのだけど
ダイヤモンドの考え方について勉強を進めていくと
自分自身がこんなに自分の低機能ばかりを見て、
私はなんてダメな人間なんだ
と思うようになったのはなぜか、とか
逆に、周りの人のいいところばかりを見て
その一面と自分を比べては、
自分のダメさを埋めないといけないと思うようになったのはなぜか、とか
その「なぜ」が全部、ちゃんと母との関係の中にあって
私はなるべくして機能価値で人を計るようになったんだ
というのがわかって
まーじーかぁぁぁーー![]()
とすごく解放されていく気持ちになっていきました
子供の頃から私は、
ずーーーーっと機能価値で母に比べられていて
お母さんはこれができるのに、
あんたはこれができない
お母さんは器用なのに
あんたはこんなことも上手くできない
お母さんはこれがわかるのに
あんたは何度言ってもわかんない
などなどなどなど
うちの母が究極の人の価値を機能価値で計るマンで
モロに私にそれをぶつけまくって来たので
(まともな大人の発言だと思ってたしね)
そりゃあ私、
私ってめっちゃできない人間だわ![]()
って思うし
自分のできない事が、
ただの私の苦手分野や凹みだったなんて気付けなかったから
みんなも同じように大変な思いをして乗り越えてるんだろうって思ってて
だから、周りの人って超人なんだと信じてやまなかったんだよ
まさか他の人にとっては
別に・・・
案件だったなんて![]()
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しかも、自分の苦手なことは横に置いといて(&できないと認めて)
自分の好きなこと、得意なこと、できること
に注目して生きてきた人の方が
この世の中にはたーーーーくさんいたなんて・・・
私は人生をかけて、
ひたすらに自分のダメなところを鍛えて普通の人になろうと頑張ってただけ
いつまでも克服できない自分の凹みに対して
何とかしようとして
何か積み上がるもののために努力することもなく
ただただ劣等感や無価値感で拗ねていただけって
マジでバカすぎるし、ものすっごい損でしかない
私ってもうすぐ生きて41年間なのに
ほーーーんと何にもしてこなくて
なーんにもないんだ
と言うのが、グッと実感していきました
そして、
これまでの私と同じように機能価値で人の価値を計る人も実際にはいるけど
その見方をしていない人だって既にたくさん存在していて
そもそも人の価値って、機能価値で計るものではないから
私がまずは自分を機能価値で計るのをやめて
その上で同じように周りの人を見て
例え機能価値で計る人に出会ったとしても
私がただ機能価値で人(自分と相手)の価値を計ることをしなければいいんだなあ
私は、自分の凹みや苦手や自分に「ない」ことに対して
埋めたり、無駄な頑張りで乗り越えようとしないこと
を毎日の暮らしの中から見つけて、やめていくことにした!
ナリ心理学のダイヤモンド理論は、
知れば知るほど深くて面白いし
すごーーーく心や生きづらさを軽くしてくれて
ほんとに出会えてよかったです![]()
ひとつずつ学んで、どんどん自分の人生に活かしていきたいな


