「子育てられ論」の話も、

日本語は読めるんだけど、全然自分ごととして繋がらなかったお話でした


私の中で繋がりにくかった理由として

・自分が親の立場でもあり、責められている気持ちになったこと

・母親を激庇って向き合いたくなかった

・やめる我慢が何か、どんな我慢を減らしていいかわからなかったこと


の2つが大きかったんだなあと思いました



私は、ナリ心理学のブログに出会う前からも

育児書大好きさんだったのもあって

「お母さんがゆったりと笑っていることが大事」

「お母さんが家族の太陽みたいであればいい」

「しつけなんて考えなくていい」

ということは知っていたし(日本語読めてただけだけど)

だからこそ、私が楽しく、笑顔で、黙っていること

それが子どもたちのためになるんだと思っていました


だから、自分はそれなりにやろうとしてるんだ

って自分に負荷をかけていた状態でもありました


でも、根本的な問題には触れずに

自分が笑顔であればいい、子どもと家事どっちが大事?

笑顔のためなら家事より子どもでしょ?

みたいなあらゆる言葉をその通りに受け取って

笑顔でいなきゃ!

我慢をやめなきゃ!

みたいな、大好き根性論で突っ走っていては

何度も大爆発をするという、空回りの天才でもありました



既に自分は、子育て上手くやれてない

思ったように全然行かない

怒ってばっかり、キレてばっかり、どーしよーえーん

だったので、

「子育て論」という子供視点の話なのに

私は「親視点」から離れられずにずっとずっといました



このお話って、

そんな上手く子育て行かない親が

どうしてそんな風になっちゃったかを

自分が子育てされた側に立って考えてみる


自分がどんな子育てをされたか、から考えてみる

というお話だと思うのですが


私は

↑この記事も全然読めてなかったので、

何で今の自分がこんなになっちゃったか?

自分が向き合うところはどこか?

が全く見えなかったし


母親と向き合いたくなくて、見れなかったんだと思います




子供にとって1番辛いことは「母親の不機嫌」

母親が我慢することで不機嫌になるのが、1番キツい

母親が不機嫌になるから、子どもはその状況下を我慢で乗り切るしかなくて

問題を起こしたり、母親を笑顔にしようと気を遣い出して

それがその後もその人の生き方(対人関係)のベースになる


そして20歳を越えたあたりで、自分の母親がやってきたことに気付き

母親への復讐として自分の人生を不幸にしていく


↑これ、まんま私の人生そのものなのだけど

あまりに自分の人生すぎて

「と言うことは、母親の育て方のせいなのか・・・!!!」

と、すっかり染まった「私が悪い」の間で

ずーーーっと揺れに揺れ

何にも認めることができない状態だったんだなと思います



でも、自分の子供たちにはどうにかしたいのと

子供の存在が私の存在証明でもあったので、

「笑顔!」「我慢やめる!」

という表面的な方をゴリゴリやることしか

できなかったんだよなあ。。。と振り返るとガックリした気持ちになります




掃除をしなくたって、ご飯を作らなくたって

ちゃんとしてなくたって、時間に遅れたって

別にお母さんが笑顔でいたらいい


という表面的な言葉をとにかく・・・表面的にやろうとしてたので

できるわけもなくハートブレイク

そんなできない自分をまた責めるというループに突入するのがお決まりのパターン



何で私は我慢をやめるもできないんだあああ!!

こんなにいろいろサボってるのに、やってないのに変わらないんだああ!!

でぐるぐるやり続けました



自分を子供視点に置けないから

子育て論の話は中々私の中に入って来ずタラー

何度読んでも「何だかわからない泣くうさぎ」でした



やっと私の中で繋がったのが、

今年の7月にあった、アドバイザーのサエコ先生の出版記念セミナーでした


・怒りは我慢の加点式だよ

・母親と向き合うんだよ


というお話を聞いた時に

「そっか、私の怒りのポイントは母親問題由来の我慢で既に溜まりまくってるから

いつでも怒りが発動準備体制万端なんだ電球

とすごーーく腑に落ちた気持ちになったのでした



そっかそっか、面倒な家事をやめること、そこで火種の母と向き合うこと

も大事だけど、


それよりも私の中に溢れんばかりの

母への鬱憤、今までの人生の未消化なこと、母親問題が終わっていないこと

こっちで私が圧迫されているから


私がやめる我慢って、ここかー!!!

私がつまらないこと(母からのゴミ価値観)を優先するから

子どもたちが二の次になるんだ電球電球電球

と、すごーーーくハッとさせられた機会でした



そこから、やっぱり母親問題だとすごく思えて、

すごくいいタイミングで母親講座も受講してるし

やれることやろう

私が怖いこと、やりたくないことをやろう

という気持ちに向いたなあと、振り返るとそう思います



このクソノート的ブログは「毎日続けてみよう」

と思って、今取り組んでいるのですが


私は「人に言わなければ、見せなければなかったことになる」と思って

とにかく隠すこと、積極的に嘘をつくつもりはないけど

言わなければいいし、人からわからなければいい

と思って、人目を避けたり、言わなかったり、やらなかったり、存在を消そうとしたり

そんな風にずっと生きてきたので


そんな自分の考えていることだったり、

うちの母親のことだったりを書くのはすごーーーく嫌だなと思ってました


こんなこと思ってると知られるのはやだな

母のことを書くのやだな(庇ってるから)

上手く行ってないこと、わかってないことを知られるのはやだな

非ダイヤ全開なのを知られるのはやだな


いいことばっかり書きたい

誰かの役に立つことをいつか書いてみたい

でも、書けない泣くうさぎ泣くうさぎ泣くうさぎ


どうせ私は口ばっかりでエセポジで中身がなくて

何の意味もないことしか書けないんだから

と、思っていたのですが


結果的には、諸々何でも毎日書くようになって

私がずっと脳内に溜めていた隠したかったことが出てしまって


このことが、私の我慢をやめるにも繋がっていました

やらないことだけが、我慢をやめるじゃないんだなあ

やり方もあるんだなあ

と、そんな経験にもなっていきました



「全然わかってない自分」が大嫌いだったので、

今日のこれもそうだけど

わかってなかったこと、間違ってた自分のことを書くのは

本気で怖いし、嫌だなあ。。。と今でも正直思う

だってまだわかってない、違うところなんてたくさんあるしー!

けど、現状これがMAXだしー!!



でも、そうやって隠すことで

またひとつ我慢を増やしていくのだとしたら

それも無駄だなあとも思う






私が中々子育てられ側に立てなかったのが、

物心ついた時にはすっかり「私が悪い」に染まっちゃっていたからなのだけど


リブログ先の記事を改めて読んで


まさか自分が母の不機嫌によって我慢をしていたなんて、自覚が持てなかったから


この自覚を持てないのが「子ども」なんだろうなって


お母さんが大好きで、お母さんが神だから

お母さんの不機嫌で私は我慢してます!

なんて思えないのがデフォなんだろうな


私自身「私が悪い」と思うようになったのは、

別に私の考え方や捉え方がおかしいのではなくて

なるべくしてなったんだなあ

とスーッと思えてきて、


ずっと私は「そんな記憶はないし」とか「我慢した時もあったけど、そんなでもない」

という考えから動かせなかったのだけど


子供の私がそんなこと自覚できるわけがないのか電球

だからこそ、より不気味で怖いし、余計に母を庇う気持ちを強めたんだろうなあ

と、感じ方が変わったような気持ちです



子育てなんて存在しない!


じわじわ深めていきますー!