今日は
劇団銀河ラボさんの
『セチュアンの善人』を観てきた。




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セチュアンの善人は
ブレヒトの作品で
わたしが外国の戯曲に興味を持ち始めてから、ずっと読みたいと思っているものだ。


演劇としてもまだ観たことがなく
今回が初めてだった。




今日は
公演を観て考えたことをメインに
書いていく。




ひとは誰もが
“善い人(つまり善人)”でありたいと
おもっているだろう。
わたしも、そうだ。


たとえば
ひとに優しくしたいとか
困っているひとがいたら手を差し伸べたい
というような
内面から善いひとであるため
自らが行動にうつすものから

ひとによく見られたい
だからひとにいい顔をする
というような
善く見せようと外面だけ補おうとするものまで

善い人といっても
それは様々であるとおもうが


とにかく
善い人でありたいのは
大半の人間の願いであるようにおもう。


だが、、
善い人ってなんだろう。


何をすれば
善い人になれるのだろうか?



シェンテのように
自分を頼ってくる人すべてに
優しくすることが
善いことなのだろうか?


じゃあ、
自分のできる範囲のことにとどめ
それ以外は断ったら
それは善い人とは言えないのか、、?



わからない。



わたしはおもう。



ひとはみんな
常に善人でいることはできないし
どの瞬間も
誰かにとっては善人で、誰かにとっては善人ではないのではないか。


シェンテにも
シュイタでありたい瞬間があり
シュイタでいる瞬間があるように

誰にでもいい顔ができる時と
何かを切り捨てなければならない、NOと言わなければならないときが
あるのではないだろうか?


誰にでもいい顔ができるのも
善い人かといえば
そうとも言えないだろうし。



そして
神様はシェンテに
善人であることを求めたけれど

そもそも
善人とは、誰かに言われてなるものでも
なり続けるものでも
ないとおもう。


シェンテに
“シュイタ”という、もうひとりの人間を作らせたのは
彼女自身ではなく
もしかしたら、まわりが彼女に押しつけた、“こうであってほしい”という願いや、“あのひとは他とは違う”という視線だったのではないだろうか。


この世に完璧な善人はいない。


それが
わたしがいまおもうことだ。

そして
善人を目指すことはできるし
それは悪いことではないだろうけれど
善人でい続けることは
きっと、できないのだ。



ひとにどう思われるかは気になるし
できれば
いい評価をされたい。
そう思うことはおかしなことではない。
わたし自身ずっとそうだった。


でも
わたしは、わたしの信じる“善いことや正しいこと”を貫くしかなくて

まわりばかり気にすることは
きっと
自分を苦しめることにしか
ならないのではないかと
シェンテを見ていて、おもった。



正しい答えはひとつじゃなくて
善い人の答えも善い行いの答えも
ひとつじゃないはずだ。



今日感じたことを大切に
これから、考えていきたい。






最後に
劇団銀河ラボさんの公演を観るのは
再演の『君死にたもうことなかれのオペラ』に続き2回目だ。

2回とも
とても考えさせられる作品で
そういうものが好きなわたしは
とてもたのしく観ることができた。



また、観ることができるのを
楽しみにしている。



今日は
ありがとうございました!!!