今日はかなり腹立たしいことがあった。
私はいま、教員養成大学にて音楽の教師を目指している。音楽専攻のなか、声楽を専門として勉強しているが、どうも研究室の教授の理論が納得できずにいる。
今日もゼミで、オペラのアリアをうたった。
今期はアリアで、とくにモーツァルトなどが中心である。
今日はモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の中からスザンナのアリアを持っていった。
この曲は、召使いスザンナが子爵ケルビーノに女装をさせる場面で、気もそぞろでじっとしないケルビーノに対してじっとするように注意をしたり、回らせたり、ウォーキングをさせたりして、まんざらでもない様子を面白がったり、その中で改めてケルビーノの魅力を実感するという内容の曲である。
私はこの曲に対し、オペラ独特のおもしろさを感じており、表現する価値をおいていたのだが先生は、「なぜこんな何の意味もない曲を持ってくるのか?」ということをいった。
【何の意味もない曲】そんなものが存在するのであろうか?
むしろ私は歌い手である先生の口からそのような言葉が出てくること自体驚きであった。
先生の中では悲しみや苦しみ、喜びなどを表現した曲は意味のある曲、そのほかはすべて意味のない曲なのであろう。しかしこの曲はそれ程に激しい感情はないものの、投げかける言葉も多く、ひとりで場面を動かしていかなければならないため、さまざまな表現力が必要とされるため、難易度は決して低いものではない。むしろ、悲しみや喜びを表現した曲は、その曲の中での感情は一定であるため比較的表現しやすいように思う。
そのことを軽視し「何の意味もない曲」などということはモーツァルトに対する侮辱である。
加えて先生は、「そんな曲は演奏会でも試験でも歌われないだろう。だから何の意味もない曲なんだ」ということを言った。
ここでも疑問が浮かび上がる。
コンサートでよく歌われる曲=いい曲
よく歌われない曲=駄作 なのか?
どのコンサートに行ってもいつも同じような曲目。同じ曲を違う人がうたうのを聞いて、比較してあの人はいいこの人は悪いと、評価する。音楽とは本来そのようなものだったのか?少なくともこの「フィガロの結婚」のオペラが作られた目的はそうではなかっただろう。
音楽が、その本来の目的を果たさずに、自己目的化している。
それは日ごろ常に感じることである。
これこそが現代においてクラシックが大衆に受け入れられにくい原因であるに違いない。
きっと皆が考えるクラシックに対するイメージとは堅い、難しい、わかりにくい、高級なものではないか?
この現状を何とかしたい。
クラシックは、特にオペラは本当に人間臭く、単純で愉快なもの、ありえないほどのストーリー転換など非常に興味深いものである。
世の中に演奏家は、自分がいかにうまく歌えるか、いかにより多くの人に受け入れるかなどを追求するのではなく、オペラがいかに面白いものかということを伝えることを追求していただきたい。
このことはかねてからずっと思っていたことだが、今回の一件でその思いがさらに増すこととなった。
何度も行動することをためらってきたため、また同じ問題に直面してしまったが、今回は何らかの形で行動に移したいと思う。


