今湧き上がっている感覚が正しいのかどうかわからないので
文章に残しておいて、数日たってから読んで違和感が無かったら
自分にとっては真実という事?。この一カ月ほど自分の過去と向き合い、
同時に未来についても悶え苦しんでいる。それは今でも変わらない。


毎晩同じような夢をみて真夜中に起きたり、早朝に目覚めたりする。
自分の中でこれまでの形あるものが砕かれ、再構築されている感覚なんだと
思う。ちなみに、これは表面的な事。こんなことは些末なこと。
誰にとっても起こりうる当たり前の事。

僕が備忘録として残して確認したいのはこんなことではない。
ともすれば忘れて、また日々の暮らしの中に埋没してしまうかもしれないこと。
僕はどれだけ洗脳されていたか。作られてきたか。それは僕が、いや俺が
生まれてからずーっと受けてきた世の中からの情報や常識に限らず、
もっとそれ以前から、自分の魂と呼ばれる段階から。
もしも僕自身、俺自身がくりかえし転生をしているなら、
この世の中で経験を積んでいく中で、
何をもって経験となすのか。
根源的な事、自分の周りにある世界は
一体何なのか。
繰り返される他人とされる存在や、外的環境とされる世界との接触は
一体何なのか。


形作っては崩されるもの。

例えば言葉、いま、この文章を書いている言葉。
これは正しいのか?自分の真実を伝えるものとして足りているのか。
たぶん足りていない、というか正しくないと思っているから
こういう感覚が芽生えている。


原因と結果、努力と成果、出発と終着、生と死
自分がたどっている時間、人生とか呼ばれるもの
これって何によって筋道たてられてるの?
たぶん、違和感を感じているからこんな感覚が芽生えている。

例えば僕は、俺は踊る。
踊ることが真実と思っている。
でも、真実を伝えている踊りはいつも出来るわけではない。
作られた言葉は無意味。作られた踊り、作られた音楽は無意味。
湧き上がる直観?心地よく自分を介して動かされた踊りは真実。

言葉は争いを生む。脳は誤解を生む。魂は迷いを生む。じゃぁ、俺は僕は何?
何でもない。ただ形作られては壊されるだけの存在。
ただそれだけ。そこには意味もなく、ストーリーもなく。
ただあるだけ。代謝する存在。

できれば話がしたい。いや通じ合いたい。
遥か遠くに生きていた人たち。
こんな感覚を共有できていた人たちと。
多分どっかの点ではいたのかも。
もしくはいるのかも。


無意味なものは無意味ととらえ、
真実のみを共有できてた人たちはいる、いたんだと思う。
無意味なところに真実を求めず、脳や魂を超えた
所に直観的に真実を感じ取れるヒトタチ。
そしてそれを言葉を超えて共有する。

ただただ心地いい状態。


ホントに自粛やめて!

被災者が立ち直りたい!元通りの生活したいって言ってるのに
それを邪魔するようなことしないでほしい!
だれがやってんの?自粛しようとかって。

催し物やってよ!イベントやってよ!街に飲みにいってよ!祭りもやってよ!
イベント一個やるとどれだけの人が動いて どれだけの経済効果あると思ってんの?

炊き出し、義援金、仮設住宅
有難いよ! でもね。それじゃ、元通りにはならないんだよ。
義援金貰ってジッとしてたって意味ないんだって。

仕事と役割を復活させてよ。 だから自粛とかしないでよ。

震源地近くで被災してテント生活と避難所生活してたころ
有難いことに食うには困らなかったよ
幸運にも自宅に戻れたよ。
だけど、何にも仕事のスケジュールの入ってないゴールデンウィークを
ただブラブラするだけの時間がどんだけ苦痛だったか。

人間は役割があって仕事があって 初めて生きてるってことになるでしょが。
何かあったら責任とれないからとか、まだ避難所にいる人が居るからとか
そんなのが理由の自粛ってもうやめて、そういう何にもしないための逃げ口上。
何もしないためなら何でもする日本人!

震災対応で忙しいから? そうじゃない地域も便乗して自粛っていってるじゃん!
それがだめだっつの。

誰も望んでないっつの! 被災者は元通りになりたいんだって。
震災きっかけで、家も生きがいも失ってどうすんの?
仕事と役割失ってどうすんの?

一体誰のための自粛?いい加減、意味がないことに気付いて。
常識人ヅラして吹聴して回るのもやめて!


明るくなり、漸く気持ちも落ち着き
団地にもどることに。
部屋はすべてひっくり返っていた。
下駄箱の上に置いてあったものが
引き出しの中に勝手に入っていた。
地震の衝撃で下駄箱の引き出しが開き
飛び上がったものがその中に入ってしまるという現象。


仕事部屋、幸い衣装ダンスは倒れていなかった、
CDが大量に入っていたタンスが倒れ中身が散乱している。


キッチンは使用済みの油が入った瓶と醤油瓶が床に落ち、
ガラスと中身が飛び散っている。その上に鍋や砕けた皿やコップが
散乱していた。
「ぼちぼち片付けよう」
嫁と子供は昨日の疲れで、昨晩飛び起きたままの状態の布団にもぐりこむ。
枕元には絵本が散乱していた。


俺は何かをしてる方がまぎれるので、のろのろとキッチンを片付け始める。
ガラスや、黒の大皿の破片。またこんなことになるとは。
しかも、もう熊本を離れようかと話していた途端に大地震。
(ここらへんは解決で(笑)ここ離れません)
「クソッ、なんなんだ」と独り言ばかり出てくる。
床一杯にひろがった液体を新聞紙でしみこませて
少しずつビニール袋に入れて片付けていく。


昼過ぎには団地の共同ゴミ置き場には、震災で出たごみが早くも山になっていた。
わざわざスーパーまで行って分別用のゴミ袋を買って可燃物と不燃物を
分けていたが、だんだんどうでもよくなった。
キッチンをあらかた片付け終わったころに嫁が起きて来た。
俺は自分の仕事部屋を片付け始める。

背の高い棚が倒れ大量のCDが散乱して、部屋がガラクタ箱のようになっていた。
手始めに入り口付近の散らばったスパンコールから片付けだす。
途中アルバムとか出てくると手が止まる。
いらないものも出てきて、ちょうどいい断捨離だなと思いながら
黙々と手を動かした。


ラジオは生きていたので、地震情報のニュースをなんとなく流し、
大量のごみをビニール袋に詰め込んだ。


居間の散らばった子供のおもちゃ類を残して、あらかた片付いたところで
作業をやめた。とっくに日常が壊れているのに、それでも普段通りの
生活をしようとする日本人。自分も含めて、これも長年の”教育”の賜物。
ブラジルに半年いた直後なので、あらためて日本人の秩序に関心した。


近くの温泉施設は普通に営業していたので、そこで汗を流し
帰りに唯一開いていたスーパーで食材を買って帰宅。


子供は家に入りたがらなかった。しきりに「危ない」と繰り返す。
避難所に行っても良かったが、昼間のつかれと昨日の寝不足で
どうしても布団で寝たかった。


簡単に食事を済ませ、
散らかった布団に紛れ込むように寝付いた夜中三時。
セカンドインパクト
「しまった…甘かった」と後悔した。
昨日にも増した衝撃。真下から叩きつけられるような振動。
片付けたばかりの隣の部屋で、物が倒れる大きな音。


今回ばかりは何もできなかった。


嫁と子供が抱き合って布団の上に座り込んで
悲鳴を上げる。


寝室の隣の居間では、電気の小さなコントローラがテーブルの上で
飛び跳ね、勝手にあかりがついたり消えたりした。
それが妙に薄気味悪かった。
まだ死神がいると思った。


昼間見た一階部分の建物のヒビを思い出した。
「建物が倒壊したら、こいつら(嫁と子供)守り切れるか…」
こりゃ死ぬかもしれないなと覚悟した。
それでも床を抑えて地震が収まるのを願った。
実際叫んでいた。


明かりがついたままになった居間に
這うようにして行き、携帯と充電器をつかむと
グラグラ揺れる中ジーパンに履き替える。
嫁と子供も手近にある服を身に着ける。


前日の地震で荷物はある程度まとめてあったが
揺れが収まらない。建物から飛び出るのは危険をわかっていたが、
それよりも倒壊の方が恐ろしかった。確実に死ぬから。


キッチンでは大きな冷蔵庫が3メートル以上うごいていた。
鏡が落ちガラスが散乱している。リュックを背負い
子供を抱きかかえて揺れの中、玄関に急いだ。
ガスを切る余裕はなかった。途中、仕事部屋を見たが、
一回目の地震では倒れなかった衣装ダンスが倒れ、棚と
折り重なっていた。


外ではサイレンや、警報が鳴っている。
足がもつれそうになりながら、小刻みのアイドリングのような
揺れの中、階段を下りた。


あとは昨日と同じ行動。
車に飛び乗り、すぐにエンジンをかける。団地横の道路が地震で歪み
波打っていた。寝間着姿の住人がぞろぞろ出てきていた。
「戻っちゃダメだったね。この子の言う通りだったね」
と嫁がいう。


気持ちが落ち着くまで時間がかかった。
深呼吸を何度もしてから車を発進させた。
今度こそ福岡方面に行こう。
昨日と全く同じルートを通る。夜中だったので
車は少なかったが、歩道には夢遊病者のように
人々が歩いていた。


車の中で、テレビで地震情報を見ながら
これは戦(いくさ)だなと思った。

何かの映画だかマンガだかで聞いたセリフを
なんとなく思い出していた。

戦の時は、とにかく逃げろと。戦って
手柄を立てようなんて思うなと。
戦で勝つというのは生き残ることだと。

しかもこれは長期戦になる。
安全地帯に逃げて体力温存が重要なこと。


倒壊の恐れのあった団地で命拾いしたんだから、
家族で逃げる事だけに集中しようと思った。

それにしても、震災(原発事故)で逃げてきたのに、
また震災に会うとは。


あとから聞いた話だが、熊本で震度7クラスの
地震が起きたのは400年ぶりだとか。
ここまでくると笑えて来る。

まだ記憶が新しいうちに文字で残しておこうと思う。


4月14日(木)の夜。俺ら家族は別の事で精神的ショックを受けていた。
熊本に東日本大震災の影響で移住してきて4年、全くのゼロから
必死で自分たちの生活基盤を作ろうと努力してきた。
熊本の良いところも悪いところも受け入れて、これからも
住もうと思っていた。けど、この時の精神的ショックは
かなりきつかった。正直疲れた。「もう頑張るの辞めよう。
気楽に家族だけで生活できるところに引っ越そう」と
頑張るのだけが取り柄の俺ですらも嫁と同じ意見になった。
(ここらへんは今は解決しました(笑)熊本で生きます)
で、早く寝た。夜八時くらいには寝室で家族三人で
ゴロゴロしていた。


そして、寝付いたころの9時過ぎ。
ファーストインパクト。
東日本大震災を経験しているので、少々の地震なら
すぐ収まるだろうと思っていたのだが、この時は
そんな考えは一瞬で消えた。
これはいつものとは違う。
横揺れからすぐに叩きつけるような縦揺れ、
キッチンの食器棚、皿類、並べてあるビン類、マルシェ用に
かった大き目の冷蔵庫が全て飛び跳ね落ちる音がした。
寝室とキッチンは壁を挟んで分けられている。
幸い寝室に大きな家具は無いし、運よく電灯も前に取り外していた。
それでも、とっさに俺は布団を嫁と子供にかぶせ、その上に覆いかぶさった。


必死に二人に覆いかぶさったので、逆に苦しいと嫁と子供が
顔を出した。明かりをつけ、
次に出た言葉が「原発!ガイガーカウンター!」
揺れはまだ残っていたが、そこからさすがに行動が早かった。
「なんとも神がかったタイミングだね」と笑いながら
ぐちゃぐちゃになったキッチンを横目に
服を着替え、貴重品をかばんに詰めた。


俺の仕事部屋もCDや楽器、衣装の一部が散乱していた。
倒れた棚を乗り越えて記録用に一眼レフと小型のノートパソコンを
取りだし、リュックに詰めた。
玄関に置いてあった飲料水のタンクを持ち上げると
10階建ての団地の8階から階段で一気に降りた。
団地の横では水道管が破裂し
大量の水が噴き出していて、道路と一部の駐車場が水没していた。
その中を走って車にタンクを載せる。駐車場には出てきた住人が茫然と
座り込んでいた。


もう一度8階まで駆け上り、毛布やら荷物と一緒に子供を抱え嫁と一緒に
部屋を出る。途中ガスの元栓を消した。ガス台は落ちかけ、油と醤油が床にガラスとともに
とびちって大好きな大皿も粉々、大きな冷蔵庫は2メーター以上動いていた。
大きな食器棚は幸い倒れずにすんだ。
「仕方ない仕方ない」と嫁が繰り返す。ブレーカーを落とし、施錠して
また一階まで階段で降りる。
駐車場に出てきている住人がさらに増えていた。余震の中不安そうに
建物を見上げていた。
俺らはすぐに車に乗り込むとエンジンをかけた。
「原発の情報は?まだ入ってない?」


地震ででこぼこになった道路に走り出す。
いつもの交差点では信号が消えていた。そこらじゅうで建物の一部が崩れ
がれきが落ちている。寝巻のまま道路に出てきている人の中に、
スーツをきた帰宅途中の人も普通に歩いていて奇妙だった。
「とりあえず福岡方面に行こう。事故らないように」と携帯を見ながら
嫁が話す。
「必ずガススタンドが混むから今のうちに満タンにしよう」
いつも使ってるスタンドに立ち寄る。
地震で早じまいしようとしている店員に無理いって
ガソリンを入れる。ギリギリ間に合った。


日本では大地震イコール原発の爆発の恐れというのがワンセットと
考えるべき。東日本の教訓。


ところどころ信号は生きている。完全に停電してるわけではない。
普通にコンビニもあかりがついてる。人が明るいところを求めて
集まっていた。信号で停止するたびに大きな余震で車が揺れる。
焦ってぶつからないように、逆にぶつけられないように、
県庁手前の交差点を帯山方面に抜けて、新しくつながった
植木にぬけるバイパスにむかった。
しばらくして唐突に恐怖がこみ上げて
足が震えた。もしも誰かキッチンに居たら。
煮炊きしていたら。確実に怪我をしていた。
電灯が付いたままだったら。寝室にタンスでもあったら。
信号で止まるたびに、手を合わせて「神様ありがとう」と何度も繰り返しつぶやいた。
道は幸い混んでいなかった。あちこちで建物がゆがんだり、崩れたり。


3号線、玉名方面にいく道の手前のセブンイレブンに
入る。既に沢山の車がとまって、車中の人の不安そうな顔がスマホの明かりで見えた。
どうやら原発に異常は無いようだった。
時折車が余震でゆすぶられる。とりあえず落ち着こう。このまま福岡に行くか、
戻るか。100円コーヒー、セブンの店内には寝巻やジャージノーメークの近所の住人が
集まっていた。

春先でも夜は冷える。アイドリングするとガソリンを消耗するので
毛布にくるまりスマホで情報収集。車内のテレビでは
5年前に散々見た画面、地震情報が画面の上と左にでるやつ。
「またか…」半ばあきれた。津波情報。そしてけたたましい例の警報「大きな揺れにご注意
下さい」嫁のスマホもトラウマになる勢いで警報を鳴らす。
横の助手席でおびえる子供の表情が切ない。
車の前の路地には小さな赤ん坊を背負った若い母親が荷物を持って
誰かの帰りを待っている。月明りで電柱が大きく揺れるのが見える。
日常ってのはあっけなく壊れるなぁと、気持ちが一層うすら寒くなった。


その後朝三時までセブンイレブンの駐車場で車中待機した。
福岡方面もどうなってるかわからない状態で移動するのは危険と
判断し、いったん自宅の団地に戻ることに。団地の基底部分に亀裂が何本も走っていた。
大量の水の噴出は収まる気配がなかった。手が付けられない。
部屋に戻れる状態ではない。そんな気分になれない。
団地よこにある小学校の校庭に移動。既に沢山の人が
ビニールシートを敷いて寒空の中毛布にくるまり横になっていた。
そのよこのグラウンドにも車が沢山泊まっていて、車中泊をする人々であふれていた。
興奮状態で明るくなるまで一睡もできない。とにかく長い夜だった。

ブラジル、サンパウロからバスで7時間ほど内陸に行くと

アラサツーバというところに着く、そして更に車で1時間ほど行いったアリアンサという地に
ユバ農場がある。


日本人入植者によるコミュニダージだ。
今日はそれを見てきた。


ここは、農業で自給自足をしながら、一方でバレエや声楽、楽器演奏など
芸術活動に力をいれて集団生活をしている農場。

農業と芸術活動の融合。

前からとても興味があった。
しかも、昔ながらの日本の生活が残っているのという。

80年も歴史のあるユバ農場。



現在は12世帯、60名ほどの人が住んでいる。
一時期よりは人数は少なくなったが、
旅行者や見学者を快よく受け入れてくれる。


見学した当日も日本からの旅行者の女性が滞在し、
出荷作業を行っていた。
観光ビザで3カ月ほど滞在するという。


ちなみに、こちらは
宿泊費も食費もなにもかからない。
一方で給与などの賃金は無い。


それぞれが自分の適性を生かして
農作業と出荷作業、炭焼き、製材、建築、機械修理などを行ってる。


ユバ農場の主な収入は農作物の出荷。
加工食品の販売。
芸術活動を通した、出演料など。


農場の広さは野球グラウンド40個分ほどの広さ。
そこに水田、マンゴー畑、ゴイアバ畑、オクラ畑、キノコの栽培所
住人のための野菜畑などがある。



その日はマンゴー、ゴイアバ、オクラの出荷の日だった。
10人ほどの方々が黙々を出荷作業をしている。



一日のサイクルは朝6時に起床、夕方6時まで農作業や出荷作業、
それぞれに割り与えられた仕事を行う。


僕が言った時期は芸術活動のお休み期間だったので、練習はなかったが、
仕事が終わった後にバレエの練習、演奏の練習をしているという。



食事、炊事は農場の中心にある大きな集会場に集まり全員でとる。
炊事担当もいる。ちなみに各世帯、宿泊者に割り与えられた居住棟には
炊事場はない。水は井戸水。非常においしい
ちなみに住人60人で食べるために、一週間に一頭の割合で豚を殺しているという。


風呂は共同。薪で毎日沸かす。夕方6時から10時まで入れるという。
弓場温泉をいうあだ名をつけている。ちなみに風呂を沸かす担当もいるという。

そのそばには小さな製材所がある。この日も男性が板を作っていた。


そして、この農場の一番の特徴。
集会場から歩いてすぐのところにテアトロがある。
50年前に弓場勇氏がバレエダンサーの小原明子氏の振付指導に感銘を受けて
たった2週間で作り上げたのが始まりという。



現在は増築を繰り返して、建築当時よりも大きなものになっている。
このテアトロの特徴、40人の群舞が一度にできるほどの奥行きのある舞台。
広い袖。使いやすい控室。


すべて手作りでできていて、確かに古い建物だが、サンパウロ中のどの舞台よりも
使いやすくできているという。
その日に対応してくださったのは小原明子氏。
杖を突きながらの説明だったが、テアトロを誇らしげに案内してくれたのが
印象的だった。



この農場のルールの一つに
人の失敗をせめるなというのがある。
その人の適性を活かし、しかし細かく指示命令するわけでもなく
各人が考えて仕事をしていくという。一生懸命やるひともいれば、
要領よくサボる人もいる。しかし、金銭によって人を雇っている
わけではないので、それでもうまく回っているという。



まったく農場としてお金を使わないというわけでは無いが、
基本的に住民はお金から解放された生き方をしていいる。


昔ながらの日本の生活が残っているかどうか。
僕が視察したのはほんの2時間ほどなので
生活の一部。なかなか判断はしずらい。
ただ、だいぶ時代の波の影響は受けていると感じた。


自給自足ということだったが、
完全自給自足ではない。消耗品の一部は購入するし、
学校、病院は近くの公立のところに行くという。
ちなみに農場には図書館がある。


決して閉鎖的ではなく、好きな時に来て好きな時に
出ていけるという。


最後にここに永住する条件。
共同生活ができるかどうかということ。
また、その人がここに住んで活かされるかどうかということ。

短期滞在者には敷居が低いが、
永住となるとある程度の審査をするという。
その人のスキルが農場の生活の中で輝かなかったら意味がないと。


帰り道、色んな想像した。
こんな選択肢もあるんだなぁと。
短期滞在者は良い思い出づくりでおわるが、
ここで生まれて、育っていく子供たちはどんな大人になるのだろう。


どんな生き方にコミットするのか、また新たなヒントができたと思う。