五年前、母が亡くなった日は、次第に雨模様になり、肌寒く感じたことを、昨日のことのようにおぼえています。

今日も今日とて、その肌ざわりが息ずいているのは、五年という歳月が何事もなく過ぎたからか、目まぐるしい日常の流れに目もくれずに邁進して来たからなのかは、正直、掴みきれない。
時間は精神的なものだから、瞬く間にも、母が生きていた頃の姿や仕草、会話や出来事などを、不意に反芻し続けているせいかも知れません。

特に肉親が亡くなってからは、その面影や存在した証(あかし)が日々大きくなり、生きていた時よりも愛おしさが強くなると、従姉妹が屈託なく教えてくれました。
それは直ぐに実感しましたね。
もちろん、そう思えない複雑な事情を持つ人もいるでしょう。
自分は幸せを分かち与え合う家族の中で育ったのだと、何時も有り難さを噛みしめます。

不思議と、悲しさよりも、寂しさが去来する。
生身の疎通は二度と出来ないんだなと...
闘病中の母の面会に通いつめた日々、それまで照れからほとんど口にしなかった当たり前の感謝の気持ちを、何度も何度も機会を惜しむように素直に伝えました。
それでも足りないくらい、もっと伝えて話がしたかった。
にも関わらず、この侘しい毎日が終わることを、心のどこかで思い描く自分を見つけてしまって落ち込んだり。

でも、そんな悲痛な喪失感も、共に楽しく幸せな日々を過ごした時間の価値の大きさには及ばない。

母を亡くして初めて気がついた自分のなかの救いです。

人の気持ちにも形があるとしたら、人の心にも美貌が見てとれるのなら、母の生きた証(思い出)に重なります。

昨日から雨が振り続いていましたが、五年前の雲行きとは違って、次第に晴れ間が広がり、また新しい緑の息づかいが匂い立ちます。


♪「Castaway Angels(Audio & Lyrics in the description)」by Leprous

https://youtu.be/Z9CCm-75yUc